翌週は、祭りの週だった。
年に一度のミコシ大祭には、近隣の町や村から普段からは想像もつかない位の人出がある。テンプルシティの中心、ヒーラーズテンプルで、『封じられたものを鎮め、奉げられたものを癒す』儀式がとり行われる。
祭りの人出は当然ながら、犯罪を激化させる。竜たちにとっては、浮かれ騒いではいられない。だが、3日間の祭りの初日、竜には幾分嬉しいことがあった。
「竜! 頑張ってっか?」
明るい声と共に訪れたのは、一番上の兄の巌だった。
5つ年上のこの兄は、4年勤めて隊を辞め、今は女房子供と老いた両親と村で暮らしている。暮らし向きが決して余裕のあるものでないことは誰より竜が知っていたが、そんな彼に心尽くしの故郷の品と、両親からの便りを運んでくれた。
勿論、今回の来訪は竜に会うのが目的ではなく、祭りで村人たちから託された品々を売りさばくのが目当てなのだが、竜の狭い部屋に泊まり、久々に兄弟同士の語らいを楽しむことが出来た。年が離れているため、それ程までには親しくしていなかった兄だが、故郷を離れて久しい竜には、懐かしく胸に沁みる話で一杯だった。
「おまえ、いつまで隊にいるつもりだ? 親父たちは、おまえが帰ってきて霖ちゃんと一緒になるのを待ってるぞ」
「ああ、うん、もう少しさ……」
竜は曖昧に言葉を濁した。故郷では、必ずしも自分は不可欠の人間ではない。兄も弟もいる。だが、ここでは自分は必要とされている、という思いがある。
「霖ちゃんを、いつまでも待たせるもんじゃねえ」
「……」
故郷では、霖は竜を追って隊に入ったと思われている。だがそれだけでないことを竜は知っている。彼女が自分でそれを決め、実行したのは、竜と同じ理由……現状への不満、それを少しでも改善したいという理想の為ではあり得ても、竜の為ではないのだ。
(俺は本当に、霖に必要とされているのか……?)
離ればなれになっても、淋しいと甘える便りを寄こす事もない婚約者……。
「どうした、竜?」
霖にこうした不満を感じるのは、実は初めてのことではない。女ながら、大抵の男が出来ることは何でもこなす。戦闘にも秀でている。
(もう少し、俺を頼ってくれてもいいのに)
負担になるまいとしているのを、頭では判っていてもそう感じてしまう時がある。身勝手な思いと判ってはいても。霖がもし、故郷で竜の帰りを待っているような女だったら……?
(そう、たとえば、マリアのような……)
「そういや竜よ、あのマリアって娘さ」
「えっ?」
考えを見透かすように巌がマリアの名を口にしたので、竜は幾分狼狽えたが、巌は無頓着に話を続けた。
「なんか、どっかで見たことある気がするんだよなあ」
「え……ほんとか、兄ちゃん」
竜は身を乗り出した。
「あの娘は記憶がないんだ。兄ちゃん、あの娘を前に見たことあるのかい?」
期待と不安がない交ぜになった思いで竜は尋ねた。
彼女の身元が判れば、彼女にとって良いことに決まっている。だが、もし彼女が全てを思いだし、故郷に帰ることになったら……? そう思うだけで胸苦しい気がし、そんな風に感じる自分に半ば当惑していた。
「あ、いや、そんなはっきりしたもんじゃねえんだ。ただ、なんか初めて会った気がしねえ、というだけだ。だが、会ったことがあるとしても、まったく最近じゃねえ。悪いが、手助けにはなりそうもねえな」
「ああ、そうなのかい」
努めて安堵感を表さないように竜は応えた。
「あれだけの美人、一度会ったら忘れそうもねえんだが……やっぱ気のせいかも知れんのう」
「そうだね」
そのまま話題は他に移り、竜がこの時のマリアについての兄の台詞を思い出したのは、もっとずっと後に、すべてが終わった後の事となった。早く思い出していたとしても何かが変わったとは考えにくかったが、竜の悔恨の気持ちは消えなかった。
―――
夜中過ぎ、巌は厠へ立った。
自分に寝台を譲り、床に毛布を敷いて寝ている弟を起こさぬよう気を使いながら、そっと廊下に出る。厠はこの宿舎の中にもあるのだが、巌は夕方に行った事務棟の方しか場所が判らない。廊下を探し回って人の眠りを妨げるまいと思い、階下に下りて事務棟に繋がる中庭へ出た。
高い塀の向こうから微かに、祭りで酔い騒ぐ者のざわめきが伝わってくるが、街の中心部から離れたここではそううるさくもない。
冷たい夜気に触れて、巌は大きく背伸びをした。
明日、うまく品物をいい値で売りさばけたら、結婚以来何ひとつ買ってやる事もしなかった妻に、髪飾りでも買ってやろう。子供達には、村では珍しい砂糖菓子を奮発しよう。彼らは野の花の蜜以外、甘いものを口にする事も滅多にないのだ。自分の子供時代、菓子の土産がどれほど嬉しかったかを思い出し、幼い我が子達の興奮の表情を思い浮かべ、巌のいかめしい顔が綻ぶ。旅は危険を伴うが、幸い往時にはなんの障りもなかったし、売買人に選ばれて本当によかった。弟の竜も立派にやっているし、話を聞けば老いた両親も喜ぶだろう。
中庭の小径を突っ切ろうとした彼は、ふと何かの気配を感じて立ち止まった。小径から離れた、庭の奥……。塀に沿ってうっそりと繁った樹々の向こう、建物の影と樹の影が重なるところ。
(……?)
話し声がする。押し殺したような、女の声。
(何じゃ、逢引きか?)
巌は覗き見に興味を持つような種類の男ではない。
だが、何かが彼の感覚に引っかかった。何か、色恋の甘やかな空気とは明らかに異質なものを、その闇は放っている気がした。彼は足音を忍ばせて少しずつ近づいた。何か悪い企みのものなら、弟の為に捨て置けない。
「……順調ですわ、ガブリエラ様。計画通り」
低い女の声。髪の長い女が樹の陰に立っている。顔は判らない。相手を見ようと、巌は木陰に隠れながらそっと窺った。
「ええ、もちろん。お任せ下さいませ」
(……?)
女の傍に人影はない。どう見ても、女は空に向かって喋っているようにしか思えない。
(あれは、マリアとかいう娘じゃないか。記憶もないというし、眠りながら歩き回る癖でもあるんじゃろうか……?)
いずれにせよ、犯罪の企みではなさそうだ。何となく釈然とせぬままに戻ろうとしかけた、その時……。
雲間から一筋の月光が差し、娘の立つ辺りを青白く照らし出した。
「あっ……」
思わず巌は小さく声を上げてしまう。冷え冷えとした光が艶やかな金の髪とそれに縁取られた白皙の横顔を浮かび上がらせる。そして、腰まで流れた髪の間から伸びた、ある筈のないもの。
(て、天使?!)
純白の、翼。彼女の背には、二枚の翼があったのだ。普通の人間がこの様を見たら、この世に天使などという神聖な存在が本当に在った事にいたく感動したことだろう。美しく、清らかなその外観は、まさに神の使いに相応しく見えた。
しかし、巌の脳裏に巡ったのは、全く異なる思いだった。
(あ、あれは。あの天使は!!)
余りの衝撃の為に、長い年月、封じられた記憶。少年の頃の、邂逅。幼い少年の身では、忘れずには暮らしていけないほどの……恐怖。
「おまえ、思い出したのね」
その言葉は、巌に向けられたものだった。彼女は始めから、彼が見ている事を知っていたのだ。
顔を上げ、冷徹な蒼の瞳がまっすぐに巌に向けられる。大男で腕っ節が自慢の巌が思わず一歩後ずさった。
「あんた……あんたが何故ここに……」
「知る必要などないわ……おまえはただ、役目を果たせばいいのよ」
「おれの、役目だと?」
天使は、冷ややかな嘲笑を愛らしい唇に浮かべた。
「すぐに、判るわ……」