アクセルは不眠症だ。
長い戦場暮らしのせいか、鋭敏過ぎる感覚はしょっちゅうどうでもいいような物音や気配まで捉えてしまい、安全な自室で床に就いても朝まで熟睡した試しなどありはしない。同じ場所にずっと過ごした竜のほうは、羨ましい事に、本当の危険に対してだけその感覚を働かせ、そうでない時は蹴飛ばしたって起きない特技の持ち主であるのに。
この時も最初にアクセルの眼を覚まさせたのは、何でもない、遠くの祭りの喧騒の中のはた迷惑な楽器の音だった。
ぱっと目を開けたものの異常がないことはすぐに判り、舌打ちして寝返りをうつ。こんな事は毎夜決まって数回はある。浅い眠りをなんとか取り戻そうと目を閉じた時だった。彼の聴覚は微かな声を捉えた。
押し殺すような呻き……眠っていたら決して聞こえなかっただろう低い物音に気づいた彼は、素早く起きあがり音を立てずに中庭に面した窓を開けた。二階の彼の部屋から見下ろす中庭は、深夜の静寂に包まれており、一見何の異常も見られない。だが……。
建物の角に近い樹の影に、人影のようなものが立っている。二人。大きな影と太った影……? いや、小柄なほうは、何かを背負っている。
(……?)
よく見ようと僅かに身を乗り出した時、その小柄な影はゆっくりと木陰から一歩を踏み出した。引かれたように大きな影もともに動く。
小柄な影は金の髪の女……顔は見えない。何か白いものを背負っている。アクセルの位置からはそれ以上詳しくは判らない。だが、その姿形はマリアではないか、と彼は思った。こんな夜中にいったい何をしているのか? 隣にいるのは誰なのか? その時、彼の背筋に悪寒が走った。
(なにっ……!)
女は、その細腕で大きな男の喉を締め上げていたのだ。ぐったりした様子の男の頚を右手で掴み、軽々と持ち上げている。アクセルは信じられない光景に思わず息を呑み込んだ。
その途端の事だった。女が顔を上げ、アクセルのほうを見た。熟練した戦士の彼がかなり離れた場所から気配を殺し様子を窺っている事に、ただ一瞬の息遣いで女は気づいたのだ。
女が、笑った。顔の造作は見えないのに、アクセルはそれを感じた。肌の斬れそうな、悪意。その塊が、彼に向けて放たれる。
彼は反射的に身を隠した。
冷たい汗を滲ませながら、しかし、このままにもしておけぬ。寝台の横に立てかけた愛用の大剣をとり、部屋を飛び出した。
階段を駆け下りると、中庭に通じる扉は開いていた。細心の用心をしながら外に出る。人の気配は絶えている。今はもう、危険な感じはない。いつでも抜けるように剣の柄を握りしめたまま、静かに先程の樹のほうへ歩み寄った。何かが、樹の根元に横たわっている。
「おいっ、しっかりしろ!」
体格のいい男が倒れていた。抱き起こす前からそれが誰か、アクセルにはすぐ判った。隊にはこんな男はいない。それは、昨日初めてここを訪れた男だった。
その顔を見ただけで、彼が既にこと切れている事が知れた。
恐怖に歪んだ顔……死人の顔など見飽きているアクセルでも、その死に顔には尋常でない衝撃を受けた。身体には、斬られたり刺されたりした痕はない。だが頚すじに、くっきりと痕が残っている。締められた、痕。それも恐らく、素手で。
(そんな……信じられん!)
その時、背後に足音が近づいた。
「アクセル!!」
アクセルの階段を駆け下りる音に目覚めた竜が走り寄ってくる。だが、アクセルの腕の中の人物に気づき、その表情が凍りつく。
「……兄ちゃん?!」
―――
翌朝、ハリストック医師の検死の結果、やはり巌は絞殺されたことが判明した。しかも、頚骨が折れていた。
祭りの警備に飛び回る隊員達にも動揺が大きい。隊の敷地内で、隊長の兄が殺されたのだ。それも大の男がなす術もなく頚を締められて。だが無論、一番衝撃を受けたのは竜だった。
「……いったい何があったのか、教えてくれ」
憔悴した顔の竜にそう言われて、アクセルは返答に詰まった。
不審な物音に気づいて庭に下り、巌を発見した、取りあえずそう説明したものの、その直前に見た女について話すべきか、珍しくこの男が竜に対して迷いを見せたのだ。
巌は、女に首を締め上げられていた。アクセルは見た。
だが、どう考えてもそれはあり得ない事だ。たとえ巌がまったく抵抗をしなかったとしても、怪物のような大女でもない限り、その身体を持ち上げる事さえ出来ない筈だ。まして、小柄な女が彼を片手で絞め殺すなど、正気の人間なら一笑に付すだろう。
(俺は夢でも見たんだろうか……?)
さすがにアクセルも、自分の記憶を疑った。首を締めていたと見えたのは錯覚で、あの時点では巌は生きており、並んで立っていたのではないか? そして彼が駆けつける間に、共犯者の何者かに殺された……アクセルは無理やりそう思う事にした。そうでも思わない事には、自分の正気に自信が持てなくなってしまう。
しかし、この殺人に女が絡んでいる事は確かだ。更に、彼はその女がマリアではないかと疑っている。
だが、彼は女の顔を見た訳ではないのだ。マリアは竜にも、隊員達にも好意を持たれている。不確かな推測を述べたところで、あの可憐なマリアが残忍な殺しに関わっているなどという考えに、誰も耳を貸す筈がない。さすがにハリストック医師にも相談するのは躊躇われた。
(まず、俺一人であの女に探りを入れてみるか)
そう思い、結局彼はその事を誰にも話さなかった。
しかし、アクセルのこの態度は、親友の不審感をかう結果となった。アクセルは誤魔化しが下手だ。何年も苦楽を分かち合った竜は、彼が何かを隠している事にすぐに気づいた。
「本当に、おまえが知ってるのはそれだけなんだな?」
探るような問いかけにアクセルは目を逸らし気味に、
「ああ」
と応えただけだった。
この時、竜がもう少しアクセルに対し率直になっていたら、アクセルも自分の考えを竜に明かしてみる気になったかもしれない。だが、竜はそれをしなかった。隊員達の間で密やかに囁かれている噂……誰も竜の耳にそれを入れる事はしなかったが、竜とて他の者が考えつく事に思い至らない訳がない。
(あの大きな、腕っ節の強い兄ちゃんを締め殺せるやつ……)
それが可能な容疑者は、どうしても限られてくる。事件があったのは、隊の敷地内の奥深くだ。簡単に部外者が侵入できる所ではない。隈なく調べたが、誰かが忍び込んだり隠れたりした形跡は見つからなかった。そうなると、犯人は隊の中の誰かということになってくる。隊の中で、巌と同等の体格、力を持つ男……それはまさに、第一発見者のアクセルにのみ、あてはまる条件なのだ。
(まさか、そんなことがあるわけない!)
アクセルをよく知る竜は、それはあり得ない事だと思う。だが、客観的に見れば、彼ほど疑わしい人物はいない。それに気づいていないのは、当の本人くらいなものだ。
そのアクセルは、誰かが『自分と同じ位の力のある男』を手引きしたと思っている。その誰かとは、マリアに違いないと感じている。
駆け引きめいた事が苦手な彼は、やはりまず直接問いただす事にした。相手は所詮小娘、きつく言えば何かぼろを出すに違いないとどこかで甘く見る気持ちもあった。