巌の死の2日後、彼は食堂で、たまたま他の者がいない好機を得て、皿を片付けるマリアの傍へ歩み寄った。
「おい、ちょっと聞きたい事がある。」
「はい?」
あどけない、と形容できそうな表情でマリアが振り向く。
「おまえ、一昨日の晩、庭にいただろう?」
「えっ……」
わずかに彼女の表情が強張ったのをアクセルは見逃さなかった。
「巌さんを殺した犯人の事、おまえ、何か知ってて隠してるんじゃないのか?」
「……知りません、私、何も」
「なんで隠す? 犯人はおまえの知り合いなのか。おまえがそいつを引き入れたのか?」
「知りません! 私、何もわからないんです。知り合いなんていません」
「とぼけるな!」
アクセルはだんと拳でテーブルを叩いた。
「記憶喪失とやらも俺はあやしいと思ってるんだ。おまえの様子は、自分が誰なのかも思い出せない奴にしては、妙に……そうだ、妙に馴染みが早すぎるんだ」
「違います! 言いがかりです、そんな!」
マリアの眼に涙が浮かぶ。無論アクセルはその涙に動揺したりはしない。もう一押しで何か喋るに違いない、と意気込んだ。
その時、マリアは意外な事を口走った。
「私……私、誰にも言いませんからっ……お願いです、私を追い出さないで下さい!私のせいにして追い出そうなんて、あんまりです!」
「……? 何を言ってる?」
アクセルが意味を掴みかねて問い返した時。
「どうしたんだ、いったい?」
食堂に姿を現したのは竜だった。
泣いているマリアと険しい顔のアクセルを、怪訝そうに見比べる。アクセルは内心、間の悪い時に、と思った。
「何があったんだ? その……立ち聞きするつもりはなかったんだけど、追い出さないで、ってどういう意味? 誰にも言わないって……?」
竜は問いかけ、ふと口篭もり、
「あ、その……もしプライベートな話ならいいんだけど」
と付け加えた。アクセルは思わず苦笑する。
「そんなわけないだろ」
「じゃあ、いったいなんで彼女は泣いてるんだ?」
こうなったら、もう竜に話すしかない、とアクセルは思った。
「実はな、巌さんが殺された晩、俺は窓からこいつが庭にいるのを見たんだ」
「マリアが?」
竜は驚いてマリアを見た。
「ほんとに? どうして今まで言わなかった?」
マリアの瞳にまた新しい涙が浮かぶ。
「私……怖くて。ごめんなさい!」
「大丈夫だよ、何が怖かったの、話してみて」
竜が優しく問いかけると、マリアはエプロンで涙を拭った。予想外の展開に、アクセルは不機嫌そうに押し黙る。
「私、あの晩、眠れなくて……ちょっと庭を歩いて、考え事とかしてたんです。そうしたら……何か、言い争うような声がして、私、思わず隠れてしまいました」
「それは誰の声だったか判るかい?」
「よく……判りません。でも、男の人の声でした」
「一人の声?」
「いいえ…男の人は二人でした」
「聞いたことのない声かい?」
「私……よくわかりません! ごめんなさい!」
臆したようにマリアは俯いてしまう。
「怖がらなくていいんだよ、マリア。それで、その後はどうしたの?」
竜の声は幼子を宥めるように優しい。
「私が隠れていると、言い争う声が大きくなって……そして、ああ、ごめんなさい! とても……怖い声が……叫び声がしました。私、怖くて、耳をふさいでしゃがんでいました。でも、そのままでは不安で動くこともできないので、そっと庭のほうをうかがってみました。そしたら、副隊長さんが、立ってらっしゃるのが見えました。私、少し安心して立ちあがろうとしたら、その足元に、誰かが……倒れているのが見えたんです。副隊長さんが、こちらを睨んだような気がして……すごく、怖くなりました。それで、そのまま走って部屋に帰ったんです」
「……つまり君はアクセルと反対の方角にいたんだね。誰か、逃げていくのを見なかったかい?」
「いいえ…私が見たのはそれだけです。ごめんなさい、黙っていて。私、怖くて……」
「……何がそんなに怖いんだ? 俺か?」
その時ようやくアクセルはゆっくりと口を開いた。
「おまえ、そりゃまるで、俺が犯人だって言ってるみたいに聞こえるぜ?」
「アクセル……待てよ、彼女は別にそんな……」
「おまえは庭にいたんだ。隠れてなんかなかった。巌さんの傍に立っていたのはおまえのほうじゃないか!」
「違います! そんな、ひどい。逆です!」
二人の主張は正反対のものだった。つまり、どちらかが嘘をついているという事だ。竜は言葉を失い、二人を見比べた。
険しい表情で、自分の肩くらいまでしかないかよわい娘を睨みつけている目つきの悪い大男と、涙をぽろぽろ流しながら真摯の表情で竜を見つめている可憐な乙女……どちらが悪人に見えるか、誰が見たって同じ答えを言うだろう。
しかし竜は、どうしてもアクセルが兄を殺したなんて信じられない、と思った。信じられない、と思う事自体がかなり疑っている証拠なのだが、竜はその思いを打ち消そうと躍起になった。誰よりも信頼できる男、いつでも命を預けられる相棒……それが、幻影だとは思えなかった……思いたくなかった。
かといって、マリアが嘘を言っているなどという考えは、それ以上に突拍子もないものだ。誰よりも純粋で美しく、無垢なマリアが、殺しなどに関わり、嘘をつく? そんな馬鹿なことがあるわけがない。彼女は恐らく、恐怖の余り、アクセルに似た男を見間違えたのだろう。恐怖の余り、男が近くを通って逃げるのも分からなかったのだろう。
「いいんだ、マリア。大丈夫だよ。アクセルがそんなことをするわけがない。俺が保証するよ。君はアクセルに似た誰か、犯人を見た。でも、もうその事は俺達に話したんだし、顔をはっきり覚えてないんだから、心配しなくてもいいんだよ」
「隊長さん……」
マリアは涙に濡れた眼で竜を見上げた。
「そう……そうですよね。私……もっと早くお話ししてればよかった」
「おい、竜……」
「アクセル、おまえが見たのは確かに彼女だったと、言い切れるのか?」
「……いや」
不承不承アクセルはかぶりを振った。そもそも、断言できない、勘のようなものだったからこそ、こうして内々に問いただそうとしていたのだ。
「俺の見たのは、長い金髪の、小柄な女だ。顔は、はっきりとは……」
「二人とも混乱していたのさ。そうだろう?」
「そうかもしれません」
マリアが言った。
「私、怖かったし、よく見ずにそう思い込んでいたのかもしれません。……私、副隊長さんにすごく申し訳ないわ。お怒りになるのも当たり前ですね」
マリアはアクセルに向き直った。不意に潤んだ大きな眼で見つめられ、思わず彼も一瞬ひるむ。
「すみません、副隊長さん。私、間違ってました! 早くお話ししていればこんなふうにはならなかったのに。許していただけますか?」
「当たり前じゃないか」
アクセルが返答に迷っている間に、竜がさっと横槍を入れた。
「こいつも勘違いしてたんだし、お互い様さ。なあ、アクセル」
「……あ、ああ、まあ、そうだな」
結局、アクセルはそう言うしかなかった。これ以上彼女を責めても、所詮は水掛論である。しかも、状況としては、普通に考えれば圧倒的に彼のほうが怪しい。
「……時間を取らせて悪かったな」
言い捨てると、釈然としない思いを抱きながら、アクセルは食堂を出ていった。
「マリア、あいつはいつもあんな風にしか言えないんだ。気にしないでくれよ」
「ええ、わかってます」
マリアは涙を拭って、にこりと微笑んだ。何の邪気もない笑みに、重たかった竜の心は、束の間癒されたようだった。