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14・呪縛

「なんとか言わないか! おまえが……おまえがこんな卑怯な奴だったなんて……!」


 竜は怒りに震えていた。

 そうか竜、相棒が卑怯者と知ってショックだったか、気の毒にな。アクセルはそう言ってやりたい衝動を覚えた。


 無気力になりかけていたアクセルを我に返らせたのは、マリアの一声だった。


「やめて、隊長さん!」


 たまりかねたように叫び、竜の背にしがみつく。


「マリア? どうして……」

「私のせいで隊長さんと副隊長さんが喧嘩するなんて駄目です! 私……私が軽率だったんです。副隊長さんはお酒を召し上がっていたから……招ばれたってここに来るべきじゃなかったのに!」

「招ばれた?」

「あっ……た、隊長さんの事で話があるってメモが……だから、私……私が迂闊だったんです、もうやめてください!」


 か細い腕で竜の背に縋り、啜り泣く姿に竜の怒気は削がれる。だが、その言葉は今度は逆にアクセルの感情を爆発させた。


「貴様、猿芝居はやめろ! この女狐がっ……俺をなめるなあっ!」


 口の中の血と折れた歯の欠片を吐き出し、アクセルは猛然とマリアに掴み掛かろうとする。


「きゃああっ!」

「アクセル、貴様!」


 無論マリアの前には竜が立ち塞がっている。


「目を覚ませ、竜! そいつはとんでもない悪魔だぞ!」

「貴様、言うに事欠いて……マリアが嘘を言っているとでも言う気か!」

「言う気なんだよ!」


 今度はアクセルのパンチが竜の右頬に炸裂した。マリアを庇う為、敢えて竜は避けなかったのだ。


「きゃあっ、隊長さん!」

「マリア、下がってろ!」

「はん、ご立派なこった!」


 吐き捨てるようにアクセルは言ったが、歯が折れ、口を切っている為、はっきりした言葉が出ない。竜の頬もみるみる腫れ上がり、唇に血が滲んだ。


 険しい表情で睨み合う二人に、部屋の入り口に詰めかけた隊員達も手を出しかね、マリアが啜り泣く声以外、息をする音を出すのもはばかられる程の緊迫感が重く辺りを包んだ。一触即発の中、二人は部屋の真ん中に身動きもせずつっ立っていた。


「竜、目を覚ませ。女に惑わされ、目を曇らせるな」


 無駄と知りつつも、アクセルはそう言わずにいられない。一時は言い訳する気力も起こらなかったが、やはり言うだけは言わねば気が済まない。


「女に惑わされたのはどっちだ。おまえがマリアを目で追っていたのは知っていた。だが、おまえに限っては、そんな卑しい気持ちを持ってではないと信じていたのに!」

「俺がそいつを見張っていたのは、その女がおまえの兄を殺したからだ」

「ふざけるな! 兄貴は首を絞められ殺されたんだ。そんな事がどうして彼女に出来るんだ?! いや、そんな事が出来るなんて、男だって限られる。信じたくはないが、犯人は隊の人間だ。犯人は……!」

「俺だって言うのか、竜。俺がおまえの兄貴を殺したと、おまえは本気でそう言うのか!」

「俺だって信じたくはない! だが、おまえしか、おまえしか出来る奴はいない! 俺には、おまえの考えが判らないんだ!」

「りゅうっ……!」

「……俺には、おまえの言う事は、信じられない……」


 わなわなと震え、絞り出すように竜は言った。アクセルの気持ちが冷めてゆき、再び虚無感に囚われた。


(なぜ、判ってもらおうとなどしたのか。俺の言葉なんか、最早誰にも届きはしないというのに……)


 アクセルは寝台の脇に立てかけていた愛用の大剣を手に取った。竜が身構えるのを見て彼は微かに笑い、剣を竜に差し出した。


「俺が罪のない一般人を殺め、おまえの惚れた女を無理に犯そうとしたと、おまえが本気で信じるなら、今ここで俺を斬るがいい」

「アクセル……!」


 竜の面に動揺が走る。


「おまえの口癖だろう? “正しい裁きを”。証人には事欠かん。ここに集まった奴等は皆、俺の有罪を確信している。違うか?」


 口を開く者はなかった。


「アクセル……おまえ……」


 竜の声が掠れる。額から汗が幾筋も流れ落ちる。怒気は消え、まるで怯えたかのように竜はアクセルを凝視した。


「やらんなら俺は出ていく」


 言うと、アクセルは前に進み出た。思わず竜が一歩下がると、つられるように戸口を塞いでいた隊員達も道を開けた。


(これまでか……)


 だが、ひとりだけ、彼の前に立ち塞がる者がいた。


「行かないでください! あなたは……あなたはここに必要な人です」

「どけよ……」


 最早、マリアをどうこうしようという気も起こらなかった。してやられたのは口惜しいが、彼女には完敗した。今後、彼女が竜に対して何を企もうと、彼がそれを気にする理由はもうないのだ。


「どきません……。隊長さんにどうか謝ってください。」

「いい加減愚かなふりだけはやめてくれ。おまえには負けたよ。頼むから通してくれ」

「いやです」


 マリアは救いを求めるように、アクセルの肩越しに竜を見る。呆けたようにアクセルの背を見送っていた竜の視線を捉える。

 一途な眼差し、無垢な眼差しで。着せられた上着が半分ずり落ちている。露わな白い肌。吸い込むような黒い瞳。誘うような紅い唇。


「隊長さん、副隊長さんを止めて……」

「アクセル……」


 その呟きは、誰にも聞き取れなかった。


「どいてくれ」

「逃げるんですか……」

「……逃げる気か、アクセルぅっ!!」


 竜は鞘を払った。

 強張った表情でアクセルが振り返る。居合わせた者は皆、何かに呪縛されたかのように身を硬くする。アクセルでさえ例外ではなかった。竜は憑かれたように剣を振りかざす。その時……。


「ばかもん!!!」


 その一喝に、呪縛が解けた。息を切らせながら人だかりをかき分けて入って来たのは医師のハリストックだった。


「一体、これは、なんの、真似じゃ。ちょっと、留守に、しておる間に……」


 老人は呼吸を整えようと苦心した。


「年寄りを、走らすもんじゃない、全く……」

「先生……」


 アクセルは大きく息を吐き出した。医師はつかつかと竜に歩み寄り、その手の剣を取り上げる。竜は戸惑った瞳でハリストックの顔を見下ろした。


「しっかりせんか、ばかもん。隊長が感情的になってどうする!」

「先生、俺は……、」

「アクセルは暫く儂が預かる。おまえたち双方、頭を冷やせ。集まっとる役立たずどもも、みんなじゃ」


 異を唱える者はなかった。


 隊員の中で老医師の世話になった事がない者など一人もいない。

 口うるさいが世話好きで、負傷者が出れば我が身を削ってでも治療に走り回り、曲がった事には見向きもしない。頑固爺いだの鬼医者だのと陰口を叩いてはいても、彼に尊敬の念を持たない隊員は存在しなかった。

 本来なら隊長の断に口を挿む権限などないにも関わらず、まさにぎりぎりのタイミングでこの場を収めたのも、彼以外の者には不可能なことであった。


「アクセル、ついて来い、さあ」


 アクセルは何か言おうとしたが自分が何を言いたいのかよく解らず、結局大人しく医師に従った。小柄な老人が大男のアクセルを従えて通るのを、今度はマリアも何も言わずに下がって見送った。アクセルは彼女の方を見向きもしなかった。


 二人の足音が廊下を遠ざかり聞こえなくなってようやく、部屋に集まった人々は放り出してきた宴の事を思い出し、ぞろぞろ部屋を出ていった。誰も、敢えて今起きた事件について触れようとしなかった。少なくとも、竜に聞こえるところでは。

 マリアは女性隊員に上着を掛け直され、慰めの言葉をかけられながら自室に連れて行かれた。


 意識の隅でそれを認識しながら、竜はまだ部屋の真ん中に立ち尽くしたまま動かなかった。動けなかった。

 自分は何を言い、何をしようとしたのだろう? 脂汗がじっとりと滲んだ。自分にとって、大切なものとは何なのか? マリアの眼を見た瞬間、何一つ思い出せなくなった。マリアが視界から去り、束の間、失っていた知覚が少しずつ戻って来る気がした。それは、とても嫌な感じだった。


 苦い汁がこみ上げてくる。彼は部屋を飛び出して厠に駆け込み、胃の中身をすべてぶちまけた。吐いている間は何も考えなくていい。それからふらふらと立ち上がった時、ふと、何か大切なものが頭をかすめた。数秒考えて、それは霖の面影だと気付いた。


 彼は目を閉じ、イメージを掴み取ろうとする。だが、何故か彼女の顔がはっきりと思い起こせない。

 彼は苛立った。どうして彼女は今ここにいないのだろう? 自分が今、これまでの生涯で最も彼女を必要としているのに。目を閉じて更にイメージを探ろうとしたがその姿は急速にぼやけ、代わって別の姿が浮かび上がって来る。鮮明な姿、魅惑的な姿で。


「マリア……」


 竜は呻いた。そして、目を開けた。

 霖はここにいない。日々過去のものになってゆく記憶の中にしかいないのだ。だがマリアは側にいる。必要な時、手を伸ばせばその手をとってくれるのだ。

 竜は迷いを払うように頭を強く振る。迷う事はない……マリアがいるのだから。

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