「貴様、どこから入った?!」
端から見れば、小娘相手に何を大人げない、と思う程の勢いでアクセルはマリアを睨めつけた。だがマリアは動じる風もなく冷たい微笑を浮かべたまま、窓辺の彼の元へ歩み寄った。
「俺に近付くな……魔女めが」
全身が総毛立つ。
華奢な身体が放つ、息もつけぬ程の害意。意識の底から痺れていく感覚は、酔いと似て異なる。
蒼ざめたアクセルを一瞥し、バラ色の唇を歪めてマリアが笑う。凍てつくような嘲笑……この娘がこんな風に笑うところを竜に見せてやりたい。可憐な美少女を愛する全ての愚か者どもも、一瞬にして自らの誤りを悟る事が出来るだろうに。
マリアは窓から中庭を見下ろした。先程まで自分も加わっていた筈の陽気な祝宴は、まだ暫くお開きになりそうにない。
「醜悪ね……そう思わない?」
何気ない口調でマリアは話しかける。アクセルは緊張を解かずに、低い声で応えた。
「何が醜悪なんだ?」
「あの豚の饗宴。下手くそな歌は歌うわ、食べ物のかすは散らかすわ……誰が掃除すると思ってんのかしら?」
「じゃあ、下に降りて直接皆にそう言ってやったらどうだ?」
マリアはふんと鼻で笑う。
「あたしがそう言えばあの馬鹿騒ぎが収まるって言うの?」
「収まるかもしれんよ。女狐が正体を見せれば、皆一瞬で酔いも醒めるだろう。」
「まあそれも一興かも知れないけど。でもさ、あたし酔っ払った親父どもも我慢ならないけど、それ以上に、あの無神経な新郎新婦って奴?あれが虫酸が走るのよね」
「……なぜだ?」
「あんたはそう思わないの? あいつらの醜さについてけないからここに逃げてきたんじゃないの?」
「俺は別に彼らが醜いとは思わん」
次第にアクセルは一体マリアが何を言い出すのか、興味が湧いてきた。何故彼女が彼にだけその秘めた本性を見せるのか、その原因も気になる所である。好奇心が、得体の知れないものに対する恐怖心を凌駕した。
「そう! そうよね、あんたはほんとは尻尾振って豚どものお仲間に入れて欲しいのに、滓のようなプライドが邪魔しちゃって竜に頭下げらんないのよね。あたしがあのでくのぼうをきゅっと締めるところを見ちゃったばっかりに、疑われちゃって可哀想にね。でもさあ、あいつら本当に醜いよ。結婚ってなにさ。あの小男とブスがつがうのが、みんなホントにそんな嬉しい訳? あいつらが乳繰りあうとこ想像したら吐き気がしちゃう。そんなの目出度いなんて偽善もいいとこ。集まってる豚どもは、ただ理由を付けて騒いで現実逃避したいだけ。結婚するとか云う豚どもは、ただ自分の汚らわしい欲望を満たしたいだけでしょ。最低だわ」
吐き捨てるようにマリアは言う。
雪のような肌がほんのり染まり、唇の端が僅かに痙攣した。その凍った湖のような瞳は狂おしいたぎろいを映して、射抜くような視線を中庭に投げている。
アクセルはむしろ呆気に取られて娘の横顔を眺めた。マリアに対して久々に、怒りと恐怖以外の感情……憐れみを覚えた。
彼女の今の言葉は、共感は出来ないが理解は出来る。これは魔物の言葉ではなく人間の言葉だ。どんな凶々しいものでも、彼女は人間の心を持っている、と思えた。
「おまえ……今のおまえの言葉の方が、ずっと醜いぞ」
どんな結果を引き起こすとしても、そう云わずにいられなかった。果たしてマリアは、その憎悪に燃えた瞳をきっとアクセルに移した。
「汚らわしいものを汚らわしいと言って何が悪いの。あんたはあの間抜けな竜と違って、人間がどんなに醜悪な生き物かよく判っているのかと思っていたけど」
「醜悪な人間もいれば善良な人間もいるさ。おまえがなんでそんなに捻じ曲がっているのか知らんが、優しい奴にだって会ったことはあるだろう?」
「は!」
吐き捨てるようにマリアは笑う。
「あんたがそんな間抜けな台詞吐くなんて! 優しい奴? そうね、ごまんと見てきたわ……人間は誰でも、自分自身にはとっても優しいもんね! 自分に優しくする為なら、他人なんか、いくら踏みにじっても構いやしないのよ!」
アクセルは溜息をついた。
「おまえの気持ちは理解できる。だが……」
「理解だって? はは、笑わせないでよ。薄汚い豚野郎のくせに。仲間からはぐれてたって、豚は豚よ。いえ、人間ほど最悪な生き物はないってのに、豚に失礼よね、こんな言い方。」
「だが、おまえだってその豚以下の人間の一人だろう」
自分でも不思議なくらい腹も立てずに、諭すようにアクセルは言った。
「おまえ、一体何を企んでるんだ? 本性を偽り、皆を惑わせて。記憶喪失も出鱈目だな? そして竜を誑かし、竜の兄を殺し、俺と竜の間に不信感を植え付け……何故、俺にだけその感情を見せる? おまえの目的はなんだ? おまえは何者だ?」
「あんたに質問する権利はないわ。あたしの気が向いた時だけ、あたしの手札をちらっと見せてやるだけよ。でも、あんたにはもう、暫くチャンスはないわね」
「どういう意味だ?」
嫌な予感がする。
マリアは一見無垢な微笑みを浮かべた。今はあのぞっとするような害意は発していない。どちらかというと、アクセルを陥れる事が出来る喜びに包まれているようだ。
「あんた、愛しの竜に憎まれたらさぞかし不幸でしょうねえ」
「妙な言い方はやめろ。俺はそんなんじゃない!」
「判っているわよ。ほんとにそうだったら、今からする事が無意味になるわ」
「何を言ってる?」
それには応えず、マリアはアクセルの方へ手を伸ばした。
思わずぎょっとしたアクセルだったが、マリアはただ窓を大きく開けただけだった。がたがたいわせて重い窓を一杯に持ち上げると、外ではもう音楽は止んで、ただ陽気になった人々の騒ぐ声がざわめきとなって届くのみだった。
アクセルは急に、マリアに対して過度に身構えているらしい自分に腹が立ってきた。
全くどういう事だ? 今まで自分は死を恐れる事などなく、どんな窮地に陥っても臆した事などなかったのに。たとえマリアが、未知の人ならぬ能力を持ち、おぞましい悪意を持ってこの細腕で大男を殺めたからと云って、数多の修羅場をくぐり抜けてきた彼に対処できぬものの筈がない。相手は魔物ではなく、あくまで人間の小娘に過ぎないのだ。
「おまえがどんな事を企もうと、俺の目の黒いうちは好きにはさせんぞ。いつまで化けているつもりだ? そのうち竜だって目が覚める」
「竜との絆とやらを信じてるって訳?」
「言葉なんかどうでもいい。あいつは俺の見込んだ男だ。一緒に幾度も死にかけた仲……それだけだ」
「そう。まあなんでもいいわ。じゃあ今から、それがどんなに脆い関係なのか、思い知らせてあげるわね」
マリアは笑みを浮かべたまま、自分の襟元に手をかける。
「何をする気だ?」
「古典的なやり方だけどね……効くと思うわよ。特に、竜にはね」
「待て……!」
浮かれ騒ぎもようやく落ち着いてきて、酔いつぶれていない者たちがデザートを楽しみながら酔いを醒まそうとしていた宴の場に、重い物が倒れるような音と女の悲鳴が響きわたった。
中庭は一瞬静まり返り、次により一層のざわめきが起こった。
「いやあーっ! 誰か……誰か来てえーっ!」
マリアは半身を窓から乗り出し、甲高い声で喚いた。
「それ以上近付いたら飛び降ります!」
「き、貴様っ、よさんかっ!」
アクセルは思わずマリアの腕を掴み、もがく彼女を窓から引き剥がした。その姿を、中庭にいた者の大半が目撃した。
「マリア……!」
「上だ、副隊長の部屋だ……!」
叫び声と共に、男たちが次々と視界から消え、中庭に続く扉が下の方で乱暴に開けられる音がし、騒々しい足音が階段の下から徐々に近付いて来る。アクセルは呆然とした。
「ちょっと、痛いじゃないの。飛び降りたりするわけないでしょ」
尖った声で言われ、反射的に手を離す。マリアの服は、彼女自身によって胸元が大きく引き裂かれていた。アクセルが掴んだ右腕は赤くなっている。
「心配してくれて有り難う、副隊長さん」
「誰がっ……貴様……!」
激しい勢いで扉が開かれた。先頭に竜が立っていた。顔を真っ赤に火照らせて、彼は倒れた椅子と割れた酒瓶を見、あられもない格好のマリアを見た。
「隊長さんっ……!」
一瞬前には潤んでもいなかった瞳から、後から後から涙がこぼれていく。嗚咽しながらマリアは竜に駆け寄り、その胸にしがみついた。
「わたし……わたしっ……!」
「もう大丈夫だ、マリア、怪我してないか?」
「いいえ、隊長さん、でも……っ!」
竜はそっとマリアの震える肩を抱き、自分の上着を羽織らせる。
「もう大丈夫……」
優しく囁きながら竜は彼女を背後に下がらせた。
「アクセル……」
竜は部屋に入って初めて、正面から親友を見据えた。
「竜、待て、聞け……」
戦闘でどんな窮地に陥ろうと、アクセルは瞬時に判断を下し、その場で最善な行動を取ることが出来た。だが今、彼は長年のパートナーに対して、どう振る舞うのが最善なのか、まるで見当が付かない。
竜の全身から怒気が吹き出した。
「アクセル、きさまあっ!」
渾身の力を込めた拳がアクセルの顎を捉えた。
咄嗟に芯は外したものの、かなりの衝撃が来る。前歯が1本へし折れ、血を吹きながらもんどりうってアクセルは床に転がった。他の者なら、間違いなく気絶していただろう。
「これはどういう事だ、アクセル、おまえが、おまえがマリアを……!」
竜の喚き声に耳鳴りが重なる。
「言って見ろ、アクセル、何か言えることがあるなら言って見ろ!」
だが、口の中に血が溢れて何も言えることがなかった。言葉を発しようとして喉に流れ込んだ自分の血液に噎せた。
よろよろとアクセルは身を起こし、竜を見、続く隊員達を見た。怒り、蔑み、嘲り……彼の親友と彼の部下達が彼に向けている、それが全てだった。
アクセルは大声で笑いたくなった。たった一人の小娘のほんの数秒間の行動で、彼の大切な全てが崩れていこうとしている。
この状況で、誰が彼の言葉に耳を貸すだろうか?竜が彼を信じようとしないのに、誰が彼を信じるだろう? 竜に救われたあの日に竜が彼に与えてくれたと思ったものは今喪われ、その喪失感は、それを持っていなかった時に彼が抱えていたのより遥かに大きな深手を彼に負わせた。例え真実が明らかになり竜が謝罪したとしても、竜が彼を信じなかったという事実は消えず、壊れたものがもとに還ることもない。