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12・婚礼

 翌週は、沈みつつある隊の士気をすくい上げるのに相応しい行事があった。


 結婚式だ。

 24歳と20歳の二人の男性隊員が、一人は故郷から呼び寄せた婚約者と、もう一人はこの街で出会った商家の娘と、合同で式を挙げる予定である。

 宿舎の中庭に席を設け、神官を一人招いての質素な式だが、近所の人々も招いてのささやかな祝宴も準備されており、久々の明るい話題に、このところ神経を尖らせ続けていた隊員達の間にも陽気な雰囲気が戻りつつあった。


 この祝宴の準備に最も熱意を見せたのがマリアだった。記憶喪失の彼女には、結婚式の記憶がなく、その様子を思い描いてはうっとりと夢を膨らませている様子が人々の微笑を誘った。


「ああ、花嫁さんって、綺麗なんでしょうね。え、ブーケ? 花束を投げるんですか? 素敵ねえ……ああ、頑張って会場にもたくさん花を飾りましょう!」

「マリアや、ブーケを取った女の子は、次の花嫁さんになれるんだよ」


 料理女が云うと、マリアはきょとんとした表情になった。


「えっ……でも、花婿さんはどうやって決めるんですか?」


 洗い場に集まっていた女達は皆、声を立てて笑った。


「そんなの、自分で決めるに決まってるじゃないか、マリアや! お前さんみたいに器量よしで気立てもいいと来ちゃあ、お前さんが選んだ相手は間違いなく、お前さんを選んでくれるとも!」

「お前さんに選ばれる果報者は誰なんだろうねえ」

「まあっ……そんな……」


 マリアは仄かに赤くなり、俯いた。だがそんなことでは、井戸端に集った女達は絶好の玩具をからかうのを止めない。


「この隊のぼんくらどもの中じゃあ、この子を任せられるほどの男といやあ、一人しかいないねえ」


 最年長の貫禄たっぷりの料理長のローザが云う。


「あら、誰なんだい、そんな好い男がいたかねえ?」


 その場に居合わせた者は皆、それが誰を指す言葉かよく判っていたが、わざとらしく合いの手が入る。


「それはねえ、マリアが一番よくご存知だろうさ。ねえマリア、熱心に看病した甲斐があって、彼は最近前にもましてお前さんをお気に入りみたいじゃないか」

「そんな、隊長さんは私なんか……」


 女達は一斉に手を叩いて笑い転げる。


「あれえ、あたしゃ隊長さんのことだなんて、云ったかい?」

「えっ……!」


 マリアは真っ赤になり、顔を覆ってしまった。ローザは笑顔のまま彼女の肩に優しく手を置いた。


「まあ苛めるのはこのくらいにしとこうか。マリア、いいじゃないか、あたしら皆、あんたが可愛いんだからさ。あんたが奥手なのが見てて少々歯がゆいだけなのさ」

「そうそう、女は度胸、押しの一手が要る時ってあるんだから」

「大丈夫、どう見ても向こうもあんたを好いてくれてるよ。お似合いだって!」

「でも、でも……」


 マリアは顔を覆ったまま、か細い声で云う。


「隊長さんには、決まった方がいらっしゃるではないですか」


 女達は一瞬顔を見合わせたが、ローザが代表して、力強く応えた。


「どうせ親同士の決めた許嫁なんだろ。構うもんか、彼が瀕死の重傷を負ったって見舞いにもこないような女に遠慮することなんかないさ。あたしら、みんな、あんたの味方なんだからね」


 女達も口々に賛同する。


「そうだよ、近くにいるあんたの方がどれだけでもいいに決まってるんだから」

「あんな好い男をいつまでも放っとく方が悪いのさ。取られたって文句なんか言えないよ」

「あんたが負ける訳ないよ」


 女達は口々に勝手な事を云ってマリアを励ました。


「……ありがとうございます、皆さん……」


 マリアは顔を上げ、感動の面持ちで女達の面々を見つめた。


「皆さんのお気持ち、忘れません」


 ……ローザは後になって、この時の事を何度も鮮明に思い出した。

 マリアは可憐で清らかで、人の悪意など想像もできない様な心優しい娘だと、あの時は信じて疑わなかったのに、と思った。


―――


 そして、待ちに待った婚礼の当日となった。


 簡素で厳かな式の中で二組の若い幸せな夫婦が誕生した。

 二人の花嫁はそれぞれの母親が丁寧に縫い上げた清楚なドレスを纏い、手にしたブーケを曇りない青空に捧げるかのように放り投げる。

 娘達は嬌声を上げ、こぞって手を伸ばしたが、ブーケのひとつはよく判らないままに争奪戦に加わっていた幼い少女の手に落ち、もうひとつが娘達の塊から少し離れたところで遠慮がちに手を伸ばしたマリアの手に落ちた。わっと歓声が起きて、次の花嫁になりたかった娘達の羨望の視線の中、暖かい幾つかの手が彼女の肩を叩く。


「マリアー次は俺達の番だねえ?」


 お調子者のトミーがさっとマリアの肩を抱くと、周囲から明るいブーイングが飛び、ローザが、


「あたしの娘に気安く触るんじゃないよ、サル!」


 と、どやしつけて、まごまごしているマリアを奪い返す。

 小男のトミーはローザの大きな手で背中をどつかれて、庭先に派手に転がり落ちて爆笑を頂戴した。その笑いの渦の中に竜もいた。トミーには愛妻がおり、これは何の底意もない冗談と判っている。大袈裟に痛がるトミーと、怪力と囃されて顔を赤くして怒っているローザを見比べて、マリアもくすくす笑っている。飾り気のない麻の長衣を纏い、豊かな金の髪を結い上げたマリアは、精一杯お洒落した娘達の誰より美しい、と竜は改めて感じた。


 ふと、人混みの中の二人の視線が、悪戯な風に吹かれた糸のように絡み合った。

 その瞬間、竜にはこの賑やかさの全てが神聖な静寂となり、この場にただ二人だけしか存在しないかのような錯覚を覚えた。

 釘付けになった視線を先に振りほどいたのはマリアの方で、はにかんで顔を伏せる。その視線の先が、しっかりと胸に抱いたブーケに届いた時、マリアは思わずその花嫁の印と竜とを見比べ、はっとしたようにまた顔を伏せる。

 竜の心にはただ幸福感のみが満ち溢れた。この晴れやかな日に、彼女もまた自分を愛してくれているという感覚を……今初めて確かに得た気がした。


 祝宴が始まった。

 裏庭で飼育されている中で一番年を取った牡山羊と三羽の鶏が、この目出度い宴の卓に上げられた。

 蔵からは葡萄酒の樽が三樽出されて、人々の気持ちはこれ以上ないくらい浮き立った。楽器の心得がある者たちが、絶えることなく祝い歌を奏で続け、それに合わせて男も女も息が切れるまで踊り続ける。

 この楽しげな喧噪は、玄関側の当直室にも届き、不幸にも外れくじを引いてこの楽しみに加われない当直の隊員に心からの羨望の吐息をつかせた。


 だが、一人だけ、当直でもないのにこの宴に加わろうとしない者がいた。

 彼は中庭を見下ろす自室の窓辺に腰掛け、独り酒を味わっていた。副隊長として、一応式には参列したが、その後はそそくさと皆に背を向け、部屋に引き篭ったのだ。そんな彼に気付く者は殆どなかったし、気付いたとしても引き留める者もなかった。ハリストックは式の直前に急患が出て往診に出かけている。


 アクセルは宴席が苦手だった。

 いくら酒に酔っても、気に染まぬ者と和やかに談笑など出来ないし、逆に、酒が入って絡んできた者に、手加減が出来ずに怪我を負わせた事が幾度かあるからだ。これまでは、そんな彼の気質を知り抜いている竜が、彼が皆からこれ以上弾き出されぬよう気を回し、強引に連れ出しては隣に座らせ、彼がトラブルを起こさぬよう気を遣いながら、彼自身も少しでも酒席を楽しめるよう計らっていた。


 だが、巌の件以来、竜は必要事項を相談する時以外、自分からアクセルに話しかけようとはしない。何の弁解もしたくないアクセルは、その内竜の気持ちの整理がつけばやがて元通りになるだろうと思いこむことにして、素知らぬ体を装った。

 やはり一抹の淋しさからは逃れ得ぬものの、元々一匹狼としてやってきた彼であるから、竜との不和を感じて益々周囲の者が遠巻きにすることは一向に気にならなかった。


 宴もたけなわの中庭の様子を眺めながら、アクセルはぐいぐいと酒を呷った。外界と切り放された孤独感にどっぷりと身を浸す事は不快ではない。酒よりも、その感覚にこそ酔っているのかも知れなかった。

 中央のテーブルについている花嫁を眺めた。

 ふたりとも十人並みの器量の筈だが、今日の日には、誰より美しい。単にドレスや化粧のせいだけでなく、彼女たちの幸福感が二人を人生で最高に飾っているのだろう。

 そして、集まった娘達の弾けるような若さ、その笑顔の瑞々しさはどうだろう。同じくこの厳しい時代に生を受けながらも、彼女たちは街の中で比較的恵まれた暮らしを送り、大きな不幸を味わったこともない。悲劇に対する距離と比例してあの美しさは与えられるのだろうか。荒んだ生活を経験したアクセルには、何もかもが眩しい。

 いつの間にか酒壷は空に近くなっていた。いつか自分も、この孤独を癒してくれるような女と出会える事があるのだろうか? ぼんやりと、普段なら決して思いつきもしない、家庭を持つ中年男になった自分の姿を想像していた時、冷や水を浴びせるような声が彼の夢想を打ち砕いた。


「醜いわね」


 マリアが側に立っていた。

 心臓を鷲掴みにされるかのような驚きに、心地よい酔いは一気に醒める。

 いつの間に? 彼の鍛え抜かれた戦士の勘は、たとえどれだけ酔っていようと、誰かの接近を全く感知せぬ事などあり得ない。だが今、手を伸ばせば届く所に、マリアは一瞬にして宙から湧き出たようだ、としか云いようがなかった。

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