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第13話・枢機卿という男

「ジーク……ごめんなさい、私」

「謝るのは無事に戻ってからだ」


 廊下の足音が迫って来る中でジークは私の手を引いて、部屋の隅にある物入れを開けた。立派で大きな木製の家具で、幸い中には大したものは入ってない。これならなんとか隠れられそうだ。


「誰か忍んでいないかとさっき確認したところだ。さあ入って、絶対に声を出したらいけない」

「でも、ジーク」

「どうにかあの男を引き離したらきっと助けに来るから、じっとしているんだ」

「わ……わかった」


 不安に零れそうになる涙を堪える。そうだ、私はひとりじゃない。ジークが傍にいてくれるもの。今までいつだってジークは助けてくれた。今回だってきっとなんとかしてくれる、そう思っていたら。


「……わたしは、そんなに信頼出来なかったのか」

「え?」


 物入れの扉を閉めようとしながら不意にジークがそう呟いたので、びっくりして目を見開くと、ジークはじっと私を見てた。


「わたしがデュカリバーを取り戻すつもりだったのに、こんな危険なことをさせてしまう程に頼りなかったか」

「ち、ちがう! 私はただ、ジークの役に立ちたくて……」


 胸を抉る言葉に、引っ込めようとした涙がぽろりと落ちた。私が出しゃばったせいでとんでもない事になった上に、私のしたことはジークのプライドを傷つけるだけのことだったのだ、と不意に悟ったから。


「わたしの為?」

「そうよ、ジーク。私、ただ、あなたの……」


 でも、皆まで言い終えないうちに、足音は部屋の扉の前まで来た。


「ジーク、お願い、私の為に危ないこと、しないで」

「……努力はする」


 そう言うとジークは音を立てないように私の隠れ家の戸を閉めて元のソファへ戻る。ああ、神さま、リオン、どうか私たちを護って下さい。

 もしも私がここに隠れている事がばれてしまったら、ジークは自分を顧みず私を助けようとするだろう。寝返ろうとしたお芝居も何もかも無駄になって、私と一緒にジークも殺されてしまうかも。いくらジークが強いと言ったって、ここには枢機卿の雇った傭兵が大勢いる。戦って無事で済むとは思えない。


 扉の前まで来た足音は、すぐには入って来ない。そう言えば、ここにいる筈の小間使いが消えたことはどうしよう。お酒の壺はテーブルの上に置いたままだ。


「待たせたな、ジークリート」


 ようやく扉の開く音がして、機嫌の良さそうな中年男の声がする。これが枢機卿……リオンや多くの罪のない人を死に追いやった悪辣非道の伯父。顔を見たいけれどもちろん覗き見する訳にはいかない。私は涙と息を呑み込んでただじっとしているしかない。


「いえ。それほど待ってはいません」


 と、もういつもの静かな口調に戻ってジークが答えた。枢機卿は椅子に腰を下ろしたようだ。


「さて、先程の話の続きかな。そなたは、アーレンの元を去って、この父の為に働きたいと」

「はい」


 ジークは硬い感じだけれど、枢機卿は何が可笑しいのかくくっと笑いを洩らす。


「そなたは5年前に言った事を忘れたのかね? この父には正義がないと。聖職にありながら己の利得しか考えぬ者は害であり親子であるのも厭わしいと、罵倒したではないか。親を侮辱し出て行った者が、今更よくのこのこと帰って来られたものだ」

「……申し訳ありません。まだ未熟で何も解っていなかったのです。どうかお許し下さい」

「ほう? では何をどのように今は解ったのかね?」

「アーレン陛下の政は、美しい絵のようなもの。現世ではそれはまかり通らぬと……美しいだけで力がなくば、やがては滅びの憂き目を迎えると。我がレイアークをそのような波に呑まれさせてはならない。他国に肩を並べ、民に不自由のない暮らしを与えるには、上に立つ者がその手を汚す事を恐れていては駄目だ。力を持たなくては。力なき王権に未来はない、と」


 前もって考えていたのだろう事を、ジークは淀みなく言葉にしたけれど、まるで砂を吐いているようだと私は思った。

 ジークの性格は枢機卿だってよく知っているのだから、わざとらしいお世辞を並べたって信用されない。だから、自分の利益の為ではなく、ただ、綺麗ごとだけの父に失望したのだと言う……。でも、いつも「正義なき王権に未来はない」と言っていたジークにはまるで意にそぐわない言葉なのだ。


「力、か。そなたも力を欲するのか」

「いえ。わたしはこの剣で国を護る力さえあれば、他の力は欲しません。そして、父上がこの国を強く導いて下さるのならば、わたしの力は父上の御為に振るいましょう」

「あくまで、寝返るのは国の為だけと申すか。まあ、そなたらしいことではあるな」


 相変わらず枢機卿は喉の奥で笑っている。ああ憎たらしい。


「だが、まだそう簡単には信用出来んなあ。何しろそなたはアーレンの騎士団長。王子の位を捨ててまでやつに尻尾を振っておった者が、なんの訳もなしに仰ぐ相手を変えるとは思えん」

「訳は、あります」

「ほう? 申してみよ」

「いまは……まだ申せません。父上がわたしに信を置いて下さると、わたしの方でも信じられた時に、その訳を申し上げましょう。その事実はきっと、父上のお力を盤石と成す筈」

「この父に、信用の証として何を求めるつもりか?」

「わたしはこの館で生まれ育ちました。再びここで生きるからには、父上の息子として、自由に奥へ出入りする許可をいただけたら」

「ふぅむ。それを許すと言えば、その、事実とやらをいま明かすか?」

「父上。我々は5年間も離れていた間柄。親子の絆でいま再び引き寄せられたといえども、そう容易く全てをあからさまには出来ないでしょう。わたしの願いも、べつに今すぐに、という訳ではありません。これからのわたしの言動をご覧になって、父上がよしと思われた時でよいのです」


 ――ジークは謀が苦手だと思っていたけど、本当に私に見せていたような誠実でも不器用なところしかないのならば、そもそも父親の政敵の中に飛び込んで人々の信頼を勝ち取れる筈がない。母がいつだか、『女性と一対一だと途端に口下手になる』と言っていたように、私を迎えに来た時には中々信用する気になれなかったけれど、大事な時には敵の前で欺く芝居だってちゃんと出来るのだ……性格的に苦手だ、というだけで。

 どちらが先に手の内を明かすにせよ、ジークの申し出が受け入れられたら、デュカリバーなんて簡単に見つけられる。なのに、私は先走ってしまって。ジークがあんなに怒るのも無理はない。折角考えていた筋書きも、いま私が見つかってしまったら滅茶苦茶になってしまう……。


「なるほど。まあいいだろう。別に今日明日と一刻を争うことではないからな。では、取りあえずの話が決まったところで盃を交わそうではないか」

「はい」

「おや? そう言えば、小間使いが酌をしに来る事になっていた筈だが」


 嫌な予感がひりひりする。枢機卿の口調にわざとらしさを感じる。


「――たしかに小間使いは来ましたが、あまりに怯えていたので下がってよいと申しました。いけませんでしたか」

「いけなくはないが、部屋の見張り番は、娘は入ったまま出て来てはいないと申しておったぞ」

「いいえ、出て行きました。扉を開けた時、見張りは席を外しておりました。咎めを受けたくなくて、その事を申さないのでしょう」


 ジークはしらをきり通そうとするけれど、枢機卿は見張り番の方を信用するのではないだろうか。


「まあいい。ではジークリートよ。あそこの物入れの中に盃が入っている。幸い酒の壺は置いたままのようであるから、そなた取って来てくれ」

「――!」


 間違いない。枢機卿はジークがここに小間使いを隠していると知っていて揶揄っているのだ。逃げ場のない獲物をいたぶるように。


「そなたが動かぬなら、私がとってこよう。仕方のないやつだな」

「お、お待ちください、父上――」

「まさかおかしな真似はせぬ事ぞ。この部屋は最初から隣室に見張りを置いている。そなたが部下らしき娘を匿った事などわかっておるし、そなたが逆らえばすぐに兵たちが集まってくる」

「わたしをまるで信用なさっていなかったと」

「当たり前だ。まあ、目的を見極める為に暫くは泳がせておくつもりだったがな。もしもアーレンへの叛心が事実であればそなたを利用する道はいくらもあるとも思ってはいたのだぞ。だが、部下を小間使いとして潜入させるなど姑息な手を用いてあっさり馬脚を現すようでは、所詮使える駒にはなれぬな」

「部下などではありません。ただ哀れと思い。父上、わたしは父上に仕えます。ですからどうか――」


 枢機卿は愉快そうに笑った。


「そんなに必死になるとは、弱みを自らひけらかすようなものだ。そなたは誰にでも優しかったが、女の為にそんな表情をするのは初めて見たぞ。離れている間に、そなたも成長したとは、父は嬉しいぞ」


 自分自身の台詞が余程気に入ったのか、枢機卿は笑い続けている。いったい何がそんなに可笑しいのか。

 けれど、笑いを収めた彼の次の言葉に、私の背筋は凍った。


「まあ、そなたを息子として愛したことなどないがな。そなたの母はうるさい女だった。私が王位をアーレンに奪われたのは、あの女が亡き父にいろいろ告げ口したせいもある。だから、あの女は早死にしたのだよ。そう――母親と一緒に始末してしまわなかったのが、父としてのせめての愛情、だったのかも知れん」

「き、貴様――」


 ああ。

 なんていうこと……。

 この男は、本当に悪魔なんだ。自分に背いた息子と和解したいなんて全く思ってない。どころか、結局駒にならなそうだと思ったら、その心を残酷に引き裂いて面白がっている。


 枢機卿は私の隠れ家の扉を開け放った。私は顔を覆って泣いていた。

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