ほんの少しだけ治まってきた涙を拭い、ゆっくりと預けていた上体を起こす。
なつはじっと僕を見つめたままで話を聞こうとしてくれていた。
「……実の父親は、最低な人間だった」
働きもしない、常に酒を欲して暴れ回る。家にいない時は決まってギャンブル。最低な父親を絵に描いたような奴だった。
付き合っていた時から素行が悪かった父親と、母親が結婚をした理由は何者でもない僕。
お腹に僕がいることがわかり、父親が私生活を改めてくれることを祈って母親は結婚した。
でもそれも、叶うことのない夢物語だと気付いたのは僕が生まれて一歳になった時のこと。
「汚ねーな、鼻垂らしやがって」
風邪を引いていた僕がふと視界に入ったのか、突然腕を引っ張り持ち上げられる。
それを見た母親が必死に叫んでもやめることはなく、僕の右腕は簡単に脱臼した。
腕を痛めたことで泣き始める僕を、突然洗濯機の中に突っ込みスイッチを入れ始める。
ブーンという機械音と共に水が流れ始め、その光景を見た母親が急いで僕を救出した。
「チッ、回るとこが見たかったのによ」
「ゲホッ、ゴホッ…うええぇん!」
「やめて!死んじゃうじゃないッ」
必死で僕を抱き上げて手当を行う母親を余所に、父親はでかい声で笑いながら部屋を出ていく。
この時からあいつは味を占めたのか、虐待という暴力の快楽に目覚め始めた。
一歳の時なんて僕はハッキリと覚えていない。
物心ついた時からずっと、父親から暴力を受け続けていた。
初めて虐待を受けた時の話は母親から聞いた。
急いで病院に連れていった母親は、階段から落ちたと咄嗟に嘘をついたらしい。
医者は何の疑いもなくそれを信じて、一回目の虐待は幕を閉じた。
僕が大きくなってから、何故その時に医者へ伝えなかったのかと聞いたら…何て言ったと思う?
「自分が愛した人を逮捕されたくなかったからだってさ」
「……。」
「結構ひどいだろ?僕のことは二番目なんだなってその時思った」
「…なおは、いつまで虐待を受けてたの?」
消え入りそうな声で問われた質問に、どう答えようか迷った。
一番、後悔している部分を話さなくちゃいけなかったから…
辛そうな顔をするなつの頭に手を乗せた後、ゆっくりと動かしながら安心させるために微笑んだ。
「僕は幼稚園ぐらいまでだから…大丈夫」
「お父さんが、虐待をやめてくれたの?」
「…ううん」
父親からの虐待を、母親が全部引き受けてくれたんだ。
そう僕の口から出てきた一言で、なつは何かを察したのか、辛そうな表情に変わる。
今まで抱えてきた後悔や苦痛の核になる部分は、このことだと悟ったのかもしれない。
なつは驚くほど人の気持ちが良くわかって、心を落ち着かせるように対処してくれる。
怪我をしていない右手をぐっと強く握られ、俯く僕の顔を覗きながら声をかけてきた。
「なお、辛かったら無理に話さなくていいからね。もう十分わかったよ」
「…話させて。もう逃げたくないから…なつには、全部話させて」
「…わかった」
真っ直ぐと顔を上げて視線を合わす僕に、少し沈黙した後すぐ受け入れる返事をしてくれる。
小さななつの手をぎゅっと握りしめ、昔をより鮮明に思い出すために強く目を瞑った。
「僕が幼稚園に入って、周りの大人たちが異変に気付き始めた」
毎日増えていく痣や、切り傷に火傷の跡。
それは幼稚園の制服や帽子では隠し切れない程の量で、おかしいと察した先生が母親を呼び出した。
虐待の事実を否定し続ける母親に、幼いながらも何故嘘をつくんだろうと不思議に思ったのを覚えている。
僕は記憶のある頃から虐待を受けてきたから、これが普通なのだと思っていた。
家に帰れば父親に蹴られて投げ飛ばされる。
どこの家もそうで、母親が仕事から帰れば父親の遊びは中断して、やっと眠ることが出来るんだと思っていた。
「七生人くん、怖くないから先生に全部話して。お家で誰かに殴られたりしていない?」
母親の前で直接聞かれた先生の言葉に、一瞬どう返せばいいのかわからなかった。
あまりにも焦っているような顔で問うものだから、今まで普通だと思っていたことが異常だったんだと気付く。
その時の、隣で僕を見つめていた母親の顔は蒼白だった。
何となく、言ってほしくないことなんだと察した時…
「ううん、殴られてない」
いつの間にか、そう答えていた。
僕の答えを聞いた途端、母親の顔に血の気が戻り始めて、やっぱりこれが正解だったんだとわかる。
本当の正解は…この時に殴られているという事実を言うことだったのに、幼い僕は間違えた方を選んでしまった。
ただ母親を悲しませたくなくて、笑ってほしくて、どうすれば元気になってくれるのか…成熟しきれていない脳をフル稼働させて考えた結果がそれだった。
「七生人…えらいね」
「…うん」
その日の帰り道は母親と手を繋いで、歌を歌いながら帰ったのを覚えている。
笑顔で偉かったと褒められたことが何よりも嬉しくて、母親が喜んでくれることが何よりも幸せだと思えた。
けれど、この日の夜からの方が悪夢は色濃く残る。
いつも通り腹を蹴られ踏みつけられている最中、母親が止めに入ってきた。