「お願い!もうやめて!」
「うるせェ!黙ってろッ」
「うう゛…ッ、ふ…ぐ、ゲエッ」
酒を通常よりも多めに摂取していたからか、その日の虐待はあまりにも強くて殺されるかと思った。
全体重をかけて踏みつけられたことで、内臓が潰れるような感覚がしたのと同時に口から吐血する。
何度も止めようとする母親の声は耳に入って来ないのか、いつもよりしつこく暴力を受けた。
幼稚園の先生に虐待の可能性を疑われたばかりだったからなのか、僕を心から心配したからなのかはわからない。
その時、咄嗟に母親が大声で叫んだ言葉が…
「七生人にはもう何もしないで下さい!私を殴っても良いからッ…お願い、もうやめて!」
父親の暴力を、一瞬だけ制止させた。
呼吸が乱れている自分の体から、ヒューヒューと変な音が聞こえてくる。
殴られた拍子に脳も麻痺したのか、この時僕の視界は歪んで天井が斜めになっていた。
その中で母親が必死に説得をしている声が聞こえてくる。
「今日、幼稚園の先生に虐待を疑われた。この子が何とか誤魔化してくれたから、あなたは逮捕されずに済んだの」
「ああ?んだと、コラ」
「この子に手を上げれば、もう疑われてる以上あなたが逮捕される。どうしても殴りたいのなら七生人じゃなく私にして!」
今まで、父親が母親に手を上げることは一度もなかった。
どれだけ僕を虐待している時に止めに入ってきても、母親にだけは手を上げなかった。
それはきっと父親も、どこかで母親のことを好きでいてくれてるからだと思っていた。
なのに…
「きゃあああッ」
意図も簡単に、その微かな希望さえも奪われる。
父親が何の迷いもなく近くに置いてあった鉄パイプで母親の頭を殴打する。
僕を虐待する用の鉄パイプが、母親専用になった瞬間だった。
今までの甘い考えがそもそもの間違いで、母親に虐待をしなかったのは…
「クソが!テメーはさっさと金稼いで来いッ」
仕事に出ている母親が周りに助けを求めないか心配だったからで、僕にだけ虐待をしていたのはバレる可能性が低いからだった。
でもそれも、立場が逆転する。
虐待の可能性に気付き始めた保育士。それに対してバレないように自分を殴れと言った母親。
もう父親の中で発散をするターゲットは決まってしまった。
「逃げんじゃねーぞ」
「うッ…ぐぅ」
外部へ絶対に助けを求めないだろう母親に、ターゲットは変更される。
自分が殴られても保育士に話さなかった僕は、自分以外が虐待の対象になれば余計に外部へ漏らすことはないと思ったんだろう。
父親にとって都合の良い、サンドバックが出来上がった。
「おか…さ、ん…」
さっきまで殴られていたことで腫れ始めた両目蓋が視界を遮り、目の前を暗くさせていく。
少し離れた場所で母親が殴られる音と、聞こえてくる甲高い悲鳴。
もう、どうすれば正解なのか、わからなかった。
やめろよ…
もうやめろよ。僕だけでいいから。
苦しむのは、僕だけでいいから…
意識が薄れる中、必死に体を反転させて蹲る。真っ暗な視界で思うことは、たったひとつだけだった。
父親が死ねばいいのに…
そうすればこの世界は平和になって、何の心配をすることもなく母親と暮らせて、幸せになる。
僕が傷つけられることも、母親が悲しむこともない。
こんなに苦しい世界から、父親がいなくなれば全てが解決するんだ。
「死、ね…ゲホッ」
力を振り絞って出てきた言葉と同時に口から出てきたのは、血の混じった汚い吐瀉物。
僕はそのまま脱力して気を失ってしまった。
意識が戻ったのは翌日の朝。
いつの間にか自分の見慣れている天井が目の前にあって、その時やっとベッドで寝ていることに気がついた。
体を動かそうとすると全身が痛い。
すぐに母親のことを呼ぼうとした口は、上から降ってきた優しい声で遮られた。
「七生人、今日は幼稚園お休みするって言ってあるからね」
「……。」
「病院は、今から行こう」
「今日はどこの病院へ行くの?」
傷だらけの母親の顔にそれだけを問う。
もうこれ以外のことは聞かなくても大体わかったから。
その傷だらけで痣が出来ている腕も、血が出て手当を終えた後の足も、包帯を巻いている頭も…全部原因は父親の暴力だとすぐにわかった。
「少し遠くの病院だけど、あっという間に着くから大丈夫。もう七生人は病院に行かなくて済むからね」
「おかあさん…」
色んな事を伝えたかった。
身代わりになった母親に対して、言いたいことも、聞きたいこともたくさんある。
また口を開こうとした僕を見て、母親が先に行動を起こした。
痛む上体を起こされ、突然引き寄せられる。
ぎゅっと抱きしめられる感触と、優しく頭を撫でられる感覚に、耐えていたものがジワジワと溢れ出してきた。
「大丈夫、もう七生人に怖い思いはさせないからね」
「う゛うッ…ヒック、ふッう…」
「もう七生人が怪我をしないで済むように、お母さん…ずっと守ってあげるからね」
傷つくのは自分だけでいいと、そう思っていたことは嘘じゃない。
本当にちゃんと、そう思っていた。
「うええんッ…うっく…うぅ」
でも…怖かったんだ。
痛くて、辛くて、このまま殺されるんじゃないかって何度も思った。
地獄から逃げ出せて、母親が身代わりになってくれると言ってくれた時、本当はすごく嬉しかった。
もうあの痛みや恐怖から僕は解放されるんだって、助かったんだって、心から喜んで…ほっとした気持ちが涙になってどっと流れ始める。
泣き続ける僕を抱きしめてくれている母親が、これから虐待の対象になるのに…
自分が助かったことだけをひたすら喜んで、僕は泣き続けていた。