自分が受ける虐待を免れたその日から、毎晩虐待される母親を見ては声を殺して泣くようになった。
リビングで殴られている母親を、壁から静かに覗いて見ているだけの自分。
僕が虐待されていた頃は必ず母親が止めに入ってくれていた。それなのに僕は、ただ傍観しているだけの毎日。
小さい体で出来ることなんて限られている。それでも普通なら止めに入らなくちゃいけなかった。
でも、僕の足は竦んでしまって、壁の向こう側へ踏み出すことが出来ず、声を出すことすらも出来なかった。
死んでしまえばいいのに…
あんな奴、早く死ねばいいのに…
何度も何度もそう思いながら、毎日のように涙を流す。
視界が歪む中で、母親の泣き叫ぶ声だけが聞こえていて、最悪な環境だった。
小学生になっても暴力は続いたまま、地獄の日常は続く。
母親の仕事場で虐待を怪しまれないように、父親は衣服で隠れる部分を重点的に傷つけていた。
僕が小学一年生になった頃には、もう母親の腹部は人間の色をしていなかった。
常に紫がかった青で、少し陥没しているように見える。
父親の気が済むまで殴った後、床で倒れこんでいる母親へ駆け寄る日課。
痛みや恐怖で泣き続ける母親の手当ては病院の医師じゃなく、僕が行っていた。
痣になっている腕や腹部に湿布を貼って、泣いている母親の声を聞く。
泣かないでほしい…
そう思っても、何もかける言葉が浮かばなかった。
父親と母親が結婚しなくちゃいけなくなったのは僕が生まれてきたから。
母親が父親に殴られているのは僕の身代わりになってくれているから。
母親が虐待されている時、庇う行為どころか壁に隠れて泣くことしか出来ない僕に、何が言えるんだろう。
無力で、臆病で、卑怯で、どうしようもない僕が、母親のために何が出来るんだろう…
本当にバカだった。幼い頃の自分が今でも憎くて仕方ない。
その時考えた母親を守る唯一の方法が…
「おかあさん…僕、空手部入りたい…」
「ふ、ぅ…ック、そう、ね…う゛ぅ」
本当にくだらない、子どもの安易な発想だった。
自分が強くなって、父親にやり返せるくらいすごくすごく強くなって、母親を守りたい。
母親が泣かなくて済むように、何も心配せずに笑って過ごせるように、平和な世界を僕が作るんだって…本気でそう思っていた。
今思えばバカだとしか言いようがない。
ただ外部に虐待をされていると言えば良いだけの話なのに、幼い頃の僕はそんな答えすら導き出すことが出来なかった。
毎日母親へ繰り返される虐待の中で、僕はひたすら空手部で強くなろうと必死になった。
母親が父親に痛めつけられている時に僕は遊んでたんだ。
自覚がなくても、母親を守りたいと思ってやっていたことでも、実際はただクラブ活動をしていただけ…
そんな最低な自分が小学五年生になった時、人生の転機が訪れた。
「一本!勝負あり!」
出場した空手の全国大会で、優勝した。
当たり前だけど大会に母親は見に来ていなくて、家族が誰もいない状況で優勝した僕をその場にいる大人たちが驚嘆する。
祝いの空気が漂う中、僕が考えていたことはただ一つ。
母親を守れるかもしれない。
あわよくば父親を殺せるかもしれない。
試合が終わったにも関わらず真剣な表情で佇んでいる僕を見て、先生が首を傾げていた。
表彰式が終わり、すぐに家へ戻る準備をする。
帰りのバスの中は、みんな疲れているのかぐっすりと眠っていて、僕だけが窓の外を眺めてこれからのことについて考えていた。
終わったんじゃない。今からが始まりなんだから…
強い思いが空き缶を握り締め、グシャッと潰してしまう。スチール缶のはずが容易に潰せた自分の握力に、思わず笑ってしまった。
こんなに強くなれたんだから、小学生の僕でも勝てるかもしれない。
全国大会の優勝は、あの地獄から抜け出す許可をもらえたようなものだった。
全員がバスを降りて、先生の解散という言葉が耳に入ったのと同時に家へと駆けだす。
途中にあったゴミ箱へ潰した空き缶を投げ入れ、そのまま走り続けた。
夕日がもうすぐで沈み終わる時刻。
時計を見なくてもわかるのは、大体母親が帰ってくる時間帯だということ。
虐待しようとする父親をどうやって痛めつけてやろうか。
今まで母親の腹部を蹴り上げてきたように、あいつの腹を蹴り続けてやろうか。
それとも僕を殴ってきたように、顔面を殴打して目が開かないようにしてやろうか。
報復について色んな案が浮かんでくる中、ふと見覚えのある姿が目に入ってきた。
見覚えのある姿どころじゃない。ずっと憎んできた、優勝するまでは恐怖の対象だった、父親の後ろ姿。
パチンコでもしてきた帰りだろう。酒を飲んでフラフラのあいつの背中は、意図も簡単に殺せるように思えた。
橙色の景色から少しずつ、薄暗くなっていく。
歩道をヨタヨタと歩く父親の隣で、車道を走る車の姿が目に入ってくる。
それを視界に入れた途端、僕の体は脳が指令を出すよりも早く動き出す。
父親のすぐ側まで走り、生まれて初めて自分から声をかけた。
「…おい」
「ああ゛?」
「あっちで母さんが虐待されてるって人に話してるよ」
車道の奥にある反対側の歩道を指さして、ありもしない嘘を吐き捨てる。
居もしない母親をあたかも存在するかのように振る舞って、酔っぱらっている相手に吹っ掛けた。
父親が僕の顔を見た直後、反対側の歩道を薄目で確認したことで完全に呆けているのを悟る。
最後に呟く一言は、絶妙にタイミングを合わせて、焦りを煽らせるように低く低く放った。
「いいの?…止めに行かなくても」
笑う僕とは対照的に、父親の顔が青ざめていく。
その瞬間、僕が予想した最高の形で父親が行動を起こした。
車道を走り抜けて反対側の歩道へ行こうとした父親が…凄い勢いで走ってきたトラックに衝突した。
最高だった…
ここまで上手くいくとは思っていなかった。
轢かれれば死ぬ可能性の高いトラックがこちらへ走ってきていることも、父親が逮捕されるかもしれない恐怖心で車道に走り出すことも、酔っぱらっているこいつが向こう側の歩道へ渡りきれるわけがないことも、全部計算通りに事が進んだ。
「きゃああああッ」
通りすがりの歩行者が悲鳴をあげている。その隣を、必死で笑いを堪えながら通った。
真っ赤な血で染まる道路も、車のタイヤで潰された父親の死に顔も、何もかもが爽快だった。
「あーあ、始めからこうすれば良かったんだ…」
家の前で呟いた言葉は、誰にも聞かれることなく消えていった。
玄関の扉を開いて、誰もいないことがわかっても僕の笑顔は止まることがない。
生まれて初めて、ただいまと笑顔で言えた瞬間だった。