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No.30 第15話『後悔』- 2



目撃者と僕の証言で、父親の死因は自殺と断定された。

父親が死ぬ瞬間を目撃した人物からの証言は、突然フラフラと自らが車道に飛び出したという内容。

それに加えて、父親は日頃から死にたいと零していたという僕の証言で警察は自殺という判断を下した。


これで母親と二人で笑って過ごせる。

あいつがいなくなれば母親が怖がることも、痛がることも、泣くこともなくなると思っていた。でもそれは…


「うわあああぁッ」


僕の勝手な思い込みで、全く母親の心を理解していない身勝手な考えだった。


病院に駆け付けた母親が、父親の横たわる側で泣き崩れる。

父親が死んで幸せな世界が作れたはずなのに、目の前の母親は泣き続けている現実。


その時にまた、自分は間違った選択をしてしまったんだと悟った。


何故母親が今までで一番泣いているのかはわからない。

それでも、これが正解ではなく不正解だったということはよくわかった。


「かあ、さん…」

「あああああッ」


泣き叫ぶ母親の肩に手を置こうとした直前で、触れるのをやめた。


母親の世界で一番必要としていなかったのは、僕だったのかもしれない。

どんな時でも一番大切な位置にいたのは父親だった。


僕がいなければ、虐待が始まることもなく、母親が苦しむこともなく、父親を亡くして泣くこともなかった。


母親の幸せを奪っていたのは、父親じゃなくて僕の方だった。

そう思えば思うほど、自分は母親に触れてはいけないような気がした。


帰宅してからの母親は死人のようで、食事も口にしなければベッドから動こうともしなかった。


どれだけ僕が話しかけようとも、どれだけ食事を与えようとしても、母親は反応を示さない。

父親が死んで二日経ってもその状況は変わらなかった。


お粥をすくって寝ている母親の口元に近づけ、少し無理やりこじ開けて押しこむ。そうでもしないと食べようとしてくれなかった。


「かあさん、ちゃんと食べて」

「……。」

「もう二日も食べてないだろ。ほら、口開けて」

「……。」

「かあさん、僕ね…空手の全国大会で優勝したんだよ」


この時初めて、僕の栄光を母親に伝えた。

ほんの少しだけでいいから、反応が返ってくるのを期待する。


僕を見てほしい。僕が側にいることを喜んでほしい。

どんなきっかけでも良いから、元気になって笑ってほしい。

そう望みを託して呟いた言葉は、跡形もなく空気の中へ消え去っていった。


それが悲しくて寂しくて、自然と目頭が熱くなっていく。

頬に伝い始める涙を拭って、すぐにお粥をすくう作業に戻る。


泣きたい気持ちを必死で抑えながら、スプーンを母親の口へ持っていった時だった。


「……えらいね、七生人」


母親の、かすれた優しい声が…僕の耳へと響いてくる。

小さく開いた口から発せられた言葉は、父親が死んでから初めてまともに発した言葉だった。


一度耐えた涙がまた溢れ出して大量に頬へと伝っていく。

その涙は色んな感情が一気に溢れ出したものだった。


後悔、悲しみ、謝罪、喜び、困惑、希望。

矛盾するはずの感情が、混ざりに混ざって涙腺から溢れ出す。


保育士に問われたあの時、僕が虐待されている事実を伝えていれば…ここまで母親を悲しませる結果にならなかったかもしれない。


トラックの運転手や、歩行者を巻き込んで、母親をここまで追い詰めて…僕が父親を憎んで殺したいばかりに、周りのことを一切考えずに行動した。


過去に戻ることが出来るのなら、生まれる前に戻りたい。

生まれてきて結婚させてしまったこと。保育士に嘘をついたこと。周りを考えずに憎しみだけで殺したこと。何もかも…


「ごめ…ん、かあさん…ごめん」


ゼロにしてくれと、心から強く願った。



母親は、本当に少しずつだけど回復していった。

僕が小学六年になった時にはもう仕事へ復帰出来るようになっていたし、食事をとるようにもなっていた。

ただ、一つ違うところは…


「ただいま…」

「お帰りなさい」


一切表情が変わらず、笑わなくなったことだった。

幸せとはほど遠い、感情を失くしたような状態。どれだけ僕が元気づけようとしても笑ってくれることはない。


でもいつか笑わせてみせると決心して、二人で過ごしていた小六の十一月。

一瞬でそんな思いを否定される出来事が起こった。


「七生人、紹介したい人がいるの」

「え…?」

「初めまして、七生人くん」


学校から帰宅した直後に紹介された長身の男。

少し父親に似ている顔つきの男が、自分の知らない間に家へ上がり込んでいた。


意味がよく理解出来ていない僕の前で、男と母親が顔を見合わせたその瞬間…


「驚かせてしまったかな…」

「ふふっ」


一年以上笑わなかった母親が、今まで見たことがないくらいの表情で笑った。

どれほど喜ばせようと頑張っても、僕の力では一切笑わなかった母親が…知らない男のたった一言で、心から笑ってみせた。


男は職場で知り合った人間で、一ヵ月前から母親と付き合い始めたらしい。

ほんの少し男が微笑んだだけで笑ってみせた母親。その姿を見て、何も言えずにただ呆然と立ちつくす。


幸せそうに微笑む二人が、どうしても僕には屈折して見えた。


始めから、僕が笑わせるなんて無理な話だったんだと思い知らされる。

母親がいつも一番大切な位置に置くのは僕じゃなくて…


「今日からこの人と一緒に住むことになったから、七生人、仲良くしてね」


恋愛対象になる『男』だった。


三人で暮らす同居生活が始まり、居心地の悪い家が出来上がる。でもそれも、そう長くは続かなかった。


四ヶ月足らずで痺れを切らした男が、僕とは別に同居出来ないかと切り出してくる。

僕自身ももう我慢の限界で、虐待してくる相手がいないとは言え、伸び伸びと暮らせないこの生活に嫌気がさしていた。


そこで中学から寮に入れる学校を提案してきたのは母親。その提案を聞いた時、特に驚きもしなかった。


やっぱりそうかと、自分の心が冷たくなっていくのを感じる。

今まで考えてきた、母親の大切な人の順位が証明された瞬間だった。


行き慣れた小学校を卒業し、続けていた空手部とも離れる。

寮に入る手続きも終わり、僕が孤独になる手順が踏まれる中で、男と母親の関係が突然悪くなり始めた。


付き合って一ヵ月やそこらで同棲を始めたんだから、当たり前と言えば当たり前。

仲が悪くなった理由を知らされることもなく、僕が入寮する前日に男は家を出て行ってしまった。


「ふ、ううッ…何でよおお!」


また、笑っていた顔が泣き顔に変わる母親。

明日には僕もこの家を出ていくことになっているのに、どうしてこうも間の悪い別れ方をするんだろう。


僕が男を受け入れようとしなかったから僕と男は不仲になったけど、人間としては父親よりもずっとマシな男だった。


だから、母親が笑っているなら…僕は、一人でも良いかなって。

邪魔な僕は、消えてもいいかなって。そう思ったのに…


「母さん…」

「ふ、うう゛…七生、人」

「寮に入るの…やめるから。僕が家で暮らせるように他の中学探そう」

「だ…めよ、七生人…お母さん大丈、夫…だから」


明日行ってきなさい。


そう振り絞るような声で言われた、行って来いという言葉。


それは僕がいない方が良いという意味なのか。

いてもいなくても同じだという意味なのか。


どちらにせよ、良い意味での送り出す言葉だとは感じられなかった。

今まで母親と生きてきた人生の中で、希望を持てば持つほど間違いだったことの方が多い。


今回は希望すら、持とうとはしなかった。

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