目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

episode_0169

 すぐに厨房に取って返すと、湯はまだ沸いていないようで、アリーシャが薬缶の前で待っているだけだった。


「母上は来なかったか?」


 声を掛けると、驚いた顔で振り向くと「来なかったです」と返される。

 既に陶器のティーポットの中には茶葉が入っており、後は湯を注ぐだけの状態であった。

 アリーシャに近づくと、薬缶からは細いながらも白い蒸気が出ているのが見えた。

 もうすぐ、湯は沸くだろう。


「これが解決したら、もうこうして暮らせないんですよね……」


 ぽつりと呟いたアリーシャをじっと見つめる。


「ティシュトリアさんが縁談を諦めるまでという約束でしたので。そうしたら、この関係も終わるんですよね……寂しいです」

「寂しい?」


 思わず聞き返してしまったが、アリーシャは頷いてくれる。


「一緒にお出掛けして、美味しいものを食べて、お茶を飲んで、本を読んで。どれも楽しい時間でした。それが終わってしまうのが寂しいです」

「どんなに楽しい時間でも、いつかは終わりが来る。……この関係もそうなんだ」


 アリーシャは自分よりもっといい男と結ばれるべきだ。

 親友のように、明るくて、気の利いて、家庭的な男と。

 自分のような、何もない男ではなく。

 その為にも、この関係を終わらせなければならない。

 そうはわかっていても。


 ーー何故、こんなにも苦しいんだ。


 思い返せば、アリーシャと出会った時からずっとこうだった。

 アリーシャについて考えると、胸が苦しくなった。

 他の男と話している姿を見ると、胸が痛んだ。

 国境沿いの基地で乱暴されそうになった時や、ティシュトリアが侮辱した時、頭に血が上って激昂した。

 自分はどうしてしまったのだろう。

 どうして、こんなにもアリーシャにーーただ一人の女性に、心を取り乱されて。


 その時、湯が沸いて、アリーシャが火を止めた。

 ティーポットに湯を注ぐと蓋をして、蒸らしている間に薬缶を置いた。


「そろそろ行くか」


 力強く頷いたアリーシャは、ティーポットとカップを載せたトレーを持った。


「持つか?」

「大丈夫です。私が持ちます」


 トレーをしっかりと持つアリーシャと、廊下を並んで歩きながら目を細める。


(もしかしたら)


 自分もアリーシャとの関係が終わるのを惜しく思っているのだろうか。


「アリーシャ」

「はい?」

「この関係が終わっても、今までの関係が無くなる訳じゃない」

「それは、そうですが……」


 戸惑い気味に見上げてくる菫色の瞳を見つめ返すと、安心させるようにフッと笑う。


「まだ、果たしていない約束があるだろう」

「お庭でお茶会をするという、あの……?」


 以前、アリーシャと約束した。

 かつて、シュタルクヘルトあっちでやっていたという「ガゼボで紅茶を片手にする読書」をここでもやると。

 その際には、オルキデアも同席してもいいと。


「その約束を果たすまで。いや、果たしても、俺たちの関係は変わらない。

 夫婦ではなくなるが、それ以外の関係は同じままだ」

「それなら、今後も一緒に?」


 顔を輝かせたアリーシャに、オルキデアは頷く。


「車が必要ならいつでも出そう。買い物にも、食事にも、読書にも、何でも付き合うさ」


 慌てて、「忙しくない時に限るが」と付け加えると、アリーシャは口元を緩める。


「ありがとうございます。嬉しいです」

「その為にも、まずは目の前の問題を解決しなければならないな」

「そうですよね。しっかりしないと」


 気を引き締めるアリーシャを微笑ましく思いながら、オルキデアは前を向く。

 応接間はもう目と鼻の先にあった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?