目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

episode_0173

 ティシュトリアが来た日。

 夕方になって、天候はどんどん悪化していった。

 夕食ーー今日は配達を頼んだ、を終える頃には、外は雷雨となっていた。


(珍しいな)


 野分だろうか。この時期に、ここまで天候が悪化したことはそうなかった。

 自室に戻らず、書斎で新聞を読んでいたオルキデアだったが、ふと前回の荒天の時にアリーシャが怖がっていたのを思い出す。


(今夜は大丈夫だろうか?)


 この屋敷来たばかりの頃、強風で庭の梯子が倒れただけでも驚いていた。静かな屋敷に響く音が怖いらしいが、外で鳴っている雷はどうだろうか。

 先程から遠くの空で音が鳴り、時折、部屋を明るくしている。

 今晩は部屋にやってくるだろうか。

 怖いからと、怯えながら、部屋にーー。


(一応、用意しておくか)


 新聞を閉じて、書斎を出る。厨房に向かうと、明かりが点いているのに気づく。


「どうした?」

「あっ、オルキデア様!?」


 厨房に居たのは、部屋に戻ったと思っていたアリーシャだった。

 ドレスを脱いで、いつものブラウスとロングスカート、最近は寒くなってきたからか、ブラウスの上にカーディガンを羽織った姿で、冷蔵庫の前に居た。


「部屋に戻ったのかと思っていた。足りなかったか?」


 食べ足りなかったのかと、暗に聞いたら、「違います」と顔を赤くして返される。


「いつもお世話になってばかりなので、たまには何か作ろうかと思って……」

「何かって?」

「以前、手料理を食べてみたいと言っていましたし……」


 恥ずかしそうに話す姿に、まだ執務室に二人で住んでいた頃、そんな話をしたことを思い出して、オルキデアは口元を緩める。


「そうだったな。だが、そう気を遣わなくていい。君には充分、助かっている」


 今日、ティシュトリアを追い返せたのも、アリーシャがオルキデアに合わせてくれたからだ。

 オルキデアに話を合わせて、「愛している」と言ってくれた。

 その場限りだったとはいえ、オルキデアは充分に嬉しかった。

 それだけで、心が満ち足りていた。


「それでも、やっぱり何かしら恩を返したいです。私がここでこうして生きているのは、あの時、助けてくれたオルキデア様のおかげです。

 医療施設で、基地でも、ずっと助けられました。いくら感謝しても足りません」


 医療施設も、国境沿いの基地でも、彼女を助けたのは偶然だった。

 たまたま、オルキデアが医療施設跡地の捜索を指示されて、たまたま、基地でのアリーシャの異変にも気付いた。全て偶然だと思っている。


「それに、一番嬉しかったのは、私にアリーシャという名前をくれたことです。

 アリサの名前が嫌だった訳じゃないんです。でも、あの名前で呼ばれる度に、シュタルクヘルトあそこでの惨めで、苦しい思い出や嫌な思い出、悲しい思い出が蘇ってきて……自分はひとりぼっちなんだって、もうこの名前を優しい声で呼んでくれる人はいないんだって、改めて言われているような気がして辛かったんです」


 オルキデアが心配していると思ったのだろうか。アリーシャは顔を上げると花が咲いた様な微笑を浮かべる。


「だから、アリーシャって呼ばれる度に、生まれ変われたような、心が晴々したんです。

 この国では……少なくとも、今は誰かが傍にいてくれます。ひとりぼっちじゃないって思えるんです。

 この名前には楽しい思い出が沢山詰まっているから、悲しくも、辛くも、全くないんです」


 アリーシャの白磁の柔肌の頬が赤く染まる。

 最初の頃、記憶が無くて、不安そうな、怯えるような顔をしていたアリーシャとは、まるで違う姿にオルキデアも目元を緩ませる。


「いつだって、『アリーシャ』と呼ばれる時は、楽しい思い出や素敵な思い出が側にあると思えるんです。名前を呼ばれる度に、その時の思い出が蘇ってきて、ほんのり心が弾んで……。こんな気持ちになれたのは、初めてなんです……!」



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?