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episode_0231

 お祭りから二日後の昼下がり。

 オルキデアはアリーシャを伴い、クシャースラとセシリアの夫婦が住むオウェングス邸に向かっていた。


「アップルパイ、喜んでくれるでしょうか?」


 アリーシャが大切そうに抱えている白い紙の箱の中には、下町で人気のアップルパイ専門店のアップルパイが入っている。


 元々は貴族街に出店していたというお店だったが、身勝手な貴族による嫌がらせが原因でーーアップルパイが売り切れで買えなかった腹いせをされたという噂だった。貴族街から撤退して、密かに下町に店を移していた。


 下町向けに材料や販売方法を見直し、リーズナブルな価格で売り出したところ、それが人気を博し、一時期、店の前は大行列になっていたらしい。

 大行列の中には、貴族街から噂を聞き付けて、主人に頼まれて買いに来た使用人やメイドも並んでいた程だった。


「セシリアはこの店のアップルパイが好物だったはずだ。花屋の客から噂を聞くなり、非番のクシャースラにねだって、買いに行かせたくらいだからな」

「そんなに美味しいアップルパイなんですね……」


 甘い物が苦手なオルキデアだが、このアップルパイについては覚えがあった。

 セシリアにねだられたクシャースラが買いに並んだ際、何故かたまたま着替えを取りに屋敷に戻っていたオルキデアまで巻き込まれと、一緒に並ばされた。


 クシャースラ曰く、並んでいる間の話し相手が欲しかったらしいが、理由はそれだけではないだろう。

 なぜなら、行列に並んでいたのは、貴族街から来た使用人を除けば、女性か恋人同士しかいなかったからだった。


「サクサクのパイ生地の中に、しっとり甘く煮たアップルが入っていてな。それが人気の秘訣らしい」

「うう……お腹が空いてきました……」

「俺たちの分も別に買っただろう。いくらセシリアに勧められたからといって、全部食べるなよ」


 今朝、アリーシャを連れて店に買いに行くと、親友夫婦の分と自分たち夫婦の分も合わせて焼き立てのアップルパイを購入した。

 その内、自分たちの分は夕食時に食べることにして、クシャースラたちの分だけ持って行くつもりで、屋敷に置いてきたのだった。


(まあ、アリーシャのことだから、セシリアと一緒に食べる可能性も考慮して、多めに購入したが)


 アップルパイを届けた後、クシャースラと話しがあるオルキデアは、彼を伴ってオウェングス邸を後にするつもりだった。

 一方、アリーシャはセシリアと話がしたいとの事だったので、そのままセシリアに預けて、帰りに迎えに行くつもりでいた。


 待っている間に、セシリアと食べる可能性も考えて、アップルパイは多めに購入した。

 アップルパイは女性や子供など少食な人でも食べやすいように、小ぶりのカップに入った一人用しか売られていない。

 その気になれば、オルキデアやクシャースラの様に体格のいい男性は、一度に数個食べられるだろう。


 アリーシャもセシリアも、少食ではないので、下手をするとクシャースラの分まで、女性二人が食べてしまいかねない。

 そうなった時、親友の怒りの矛先がオルキデアに向かってくるのは、火を見るよりも明らかであった。

 愛妻家のクシャースラは、妻の友人であり、自身も気に入っているアリーシャは絶対に責めないだろう。

 そうなれば、代わりにその咎を受けるのは自分しかいない。

 そうならない為に、多く購入したのだった。


「わかっています。わかっていますが……。この甘い香りを前にして、我慢出来ません……」


 リンゴとバターの甘い香りの誘惑に耐えるアリーシャの横顔を見つめながら、オルキデアは微笑を浮かべる。


(変わったな)


 出会った頃に比べて、自分の気持ちをはっきりと話すようになった。

 遠慮して、我慢していたのが、嘘のようだ。

 お腹が空いたと空腹を訴え、美味しいと感想を伝えてくる。

 目を輝かせながら話すアリーシャには、出会った頃の陰鬱な雰囲気は無かった。


 本人が言っていたように、毎日が満ち足りているのだとしたら、それは良い兆候だろう。

 止まっていたアリーシャの時間が、ゆっくりと動き出したことを意味するからだ。



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