感情を押し殺しながら微妙な表情で歩く霞は、曲がり角で四人の気配を感じた。
「そんな気を使わなくていいわよ」
自分から声をかけ、そのまま誰とも目を合わせずにトイレに直行する、そして、洗面台で手を洗いながら玲の言葉を思い出した。
――あの一言で俺がどれだけ助けられていることか
(あの顔、ちょっと気持ち悪かったんだけど、どう解釈したらいいのかしら? 天才の考えることって、全然わからない……)
鏡に映る自分の姿に問いかける。
(自分にナイフ刺すとか、なぐられたいとか、やっぱりあの子、変態だったのかな? わたしができるのって、それ? 本当にあの場でなぐってあげたほうが良かった? あれだけ何回も言うって、そういうこと? ――いや、やはり危険ね。まだ変態と決まったわけじゃない。それとなく聞いてみる? 『電気あんまって知ってる?』とか言ってみて反応を試してみるのが正解かも……なわけないわよね)
白衣の下に穿いているハイソックスで玲をぐりぐりするイメージを首をふって振り払いつつ、
(そんな、まさかね。考えすぎよね)
混乱する頭を整理するように、ため息をついたそのとき、
「何やら面白そうなこと、やってるらしいじゃない?」
「えっ! 誰?」
――ガチャ
霞が振り向くと同時にトイレのドアが開き、出てきたのは翔子だった。
「そんなに驚かなくても……」
「いきなりその恰好で出てこられたら誰だってびっくりするわよ! というか何してるの? こんなところで」
「誰かが工学部で爆破事故起こしたみたい。そんな中で誰もいない構内をうろついてたら、怪しまれるでしょ?」
「何それ? ミサイル落とされても大丈夫なんじゃなかったの?」
「内部から破壊されたらひとたまりもないわよ」
「あ、そんなもんなんだ。けどあなた、セキュリティチームとか組織してなかったっけ?」
「昔の話よ。今は誰もいないもの。あなたたちも用がないなら、早く帰った方がいいわ」
「そ、そうね」
「それはそうと、あなたの周りの子、いい子たちじゃない?」
「え?」
「若くてかっこよくて」
「あなた男だったら年とか関係ないんですかっ!」
「そんな現代の尺度で測られても――」
「いくら時代を行き来できるっていったって、ストライクゾーン広すぎない?」
「冗談、冗談よ。半分」
「冗談に聞こえないんですが。そういえば今日、あの中の男の子が二人、大学病院に行ったんだけど、大丈夫……だよね?」
「大丈夫よ。あなたなんかと違って、まともな精神の持ち主みたいだしね」
「どうだか。あ、それとわたしたち、やっぱりお昼に研究室使わせてもらうから」
「そう。じゃあ私はトイレで一人悲しく――」
「ダンディなおじさまはどうなったのよ?」
「だから警察に見つかったら大変じゃない。わかるでしょ?」
「それもそうね」
「あなたたちがこれ見よがしに楽しそうなことしてるのを見ると、私の方が情緒不安定になるわ。思い余って私が演算室を消し飛ばさないよう、祈っておいてね」
「いやいや、やめてよ、そんなこと!」
◆◇◆
その日の夜、玲がろくに食事もとらずに帰宅した後で、真奈美の部屋に泊った霞は、布団に入りながら切り出した。
「わたし、彼の負担を軽くしたいと思っただけなのよ。だけど空回りというか、ぜんぜん頼ってくれないし」
「そんなことないと思うけどなぁ」
「あんな玲、見たくなかった」
「まぁでも、気にしたってしょうがないじゃない?」
(あなたに言われると少し腹が立つわね)
「カフェテリアでいったいなにを話したのよ?」
「……まなみん、玲のこと、振ったって本当?」
「うん、ほんと」
「そうだったんだ……」
「本人が言ってた?」
「うん」
「なんでそんな話になったの?」
「いやー実は、前に玲にお願いしていたのよ。『まなみんから離れないで』って」
「えっ?」
「状況が状況だけに守ってあげてって意味で言ったんだけど、わたし、そんな事情知らずに頼んじゃってて、悪いことしたなーって」
「あー、そう言えばあいつ、優しかったな」
「玲のこと、嫌いだったの?」
「そんなわけないじゃない! あの玲さまよ? まさか告られるなんて思わなかったから、飛び上がるほどうれしかったもん」
「…………」
「だけど、その時はもう、雅也のことが気にかかってたから……」
「そっか」
「あいつに『雅也のこと頼む』って言われたの。雅也が一人で突っ走ってた時だったんだけどさ」
「…………」
「だからあたし言ったんだ。あいつに」
「なんて?」
「『もし、雅也が暴走したら、あたしが止めるから』って」
「えっ?」
「あいつなら一人でも大丈夫だけど、雅也は違うから。常識ないし、誰かがついてないと危なっかしいから、だから、いざとなったら、あたしが止めるって、あいつに言ったの」
「そうだったんだ」
「けどさ……今にして思えば、あいつもきっと、誰かに頼りたかったんだと思う。自分のエンジンを制御できる、精神面のブレーキが欲しかったんだろうなって。周りからすれば、あいつのバランス感覚って安定感あるじゃない? だからあたしたち完全にあいつに頼りきってたけど、でも、本人は自信なかったんだろうなって。今みたいなカオスな状況ならなおさら。だから、疲れて自分でエンジン止めちゃったのかもね」
「……わたし……またひどいことしたかも」
「ん?」
「たぶんまなみんのその言葉のすぐ後なんだけど、わたしも言ったの。もし理性を失っても、わたしが止めるから大丈夫よって。ぶんなぐってでも止めてあげるわって」
「……そりゃえぐいな……いろいろな意味で」
「玲くん……今どんな気持ちなのかしら……」
「うーん、相当傷心モードだと思うよ。地獄から天国、天国から地獄で、心折られて砕かれて涙に溶けてゲル化のゲル状で、原形を留めていないと思う。よくわかんないけどさ」
「……なんか……死にたくなってきた……」
「死なないで」
「え?」
「死なないで……かすみん」
「…………」
「zzz……」
◆◇◆
翌日、真奈美の家に来た玲が呼び鈴を鳴らすと、ドアを開けたのは霞だった。
「おはよう……って、霞……さん?」
「あの……わたしが悪かった。ごめんなさい」
「え?」
霞にいきなり頭を下げられて、びっくりする玲。
「知らなかったの。あなたが全部抱え込んじゃってたなんて……。足手まといになってたなんて……。だって、わたしのことも責めないし」
「じゃあ、行こうか」
玲が明るく言った。
「……どこに?」
「大学だよ。おつき合いしますよ。お邪魔でなければ、だけどね?」
笑って、嫌味なく答える玲。
「……もう」
あまりに気恥ずかしく、霞はうつむいてそう言うしかなかった。