鼓膜を刺激する規則正しい電子音が、俺を眠りの世界から引き剥がしていく。体を包む、柔らかい感触。目を開けると、網膜が白一色に塗り潰され、一瞬目が眩んだ。何度か瞬きをすると、網膜が光を正常に捉えるようになったのか、ぼんやりと世界の輪郭が見えてくる。潔癖じみた清潔感を保つための消毒液の独特のにおいが、遅れてつんと鼻をついた。
視界に映った見知らぬ天井をぼんやりと仰ぐ。ここは病院なのだろうか。慌ただしく駆ける複数の足音が廊下にこだましているのが耳に届く。何だか忙しそうだ、なんて呑気な感想を抱きながら体を起こそうとすると、不意に腹部に鋭く激痛が走り、俺は低く呻いてベッドに再び身を預けることになった。そこで遅まきながら、〝手〟に腹部を貫かれたことを思い出し、胃が引っくり返るような不快感から吐き気が込み上げてくる。咄嗟に口元を手で覆ったが、幸いなことに吐き気はすぐに治まった。
病院のベッドで寝ているということは、俺は生きているのだろうか。それとも、死後の世界も現実と大差ないような世界なのだろうか。
天井を見上げながら、そんなくだらないことばかりで思考を飽和させる。そもそもあの後、俺は一体どうなったのだろう。それに何か、大切なことを忘れているような気がする。
それを思い出そうとして集中するとこめかみが鋭く痛み、俺は顔を顰めた。少なくとも、腹部に傷があるようなので、俺はどうにか一命を取り留めたのだろう。俺は小さく息を吐いて、一度思考を全て追い出すことにした。
「やっと起きたなのですかー? 夜絃はお寝坊さんなのですねぇ」
聞き慣れた声だったが、それが突如響いたことによる驚きで無意識に体がびくりと跳ね、俺は焼け付くような腹部の痛みに低く呻くことになった。これは、早急に体の動かし方を学ばねばならない。この痛みに毎度襲われると、俺の体が持たない。
しばらくして痛みが引いてから、俺は声がした方、つまり自分の右側に慎重に目を遣った。そちらにもベッドが置いてあり、入院服を着たリミナがこちら向きで横になっている。彼女の背後から日光が差し込み、照らされた髪が光を通して薄く透けていた。彼女の顔色は最後に見た時よりも遥かに良くなっており、俺は少しほっとする。
「お前、もう大丈夫なのか?」
そう問い掛けると、リミナは小さく笑みを浮かべた。
「はい、わたしはもう平気なのですよ。魔力切れは久しぶりだったので、少し焦ったなのです。夜絃こそ、お腹は大丈夫なのですか?」
彼女が生きているという事実に、ほっと胸を撫で下ろす。俺のあの行動は、無駄ではなかったのかもしれない。
「お前が無事で何よりだよ。まだ痛ぇけど、まあ大丈夫じゃねぇかな」
正直、自分の状態は医者に何も聞かされていないので、全く把握できていない。
そんな曖昧な答え方をしたのも束の間。
「いや、夜絃は傷が癒えるまで絶対安静だ。それから、〝侵食〟に一度取り込まれた影響を調べなければならないので、しばらくは検査ばかり受けることになるだろう」
不意に響いた低い声に、俺は驚いて思わず体をびくりと震わせてしまい、そのせいで引き攣った腹部の傷の痛みに唸ることになった。皆発言する時、俺を驚かせなければならないルールでもあるのだろうか。もう少し怪我人を労わってほしいところだ。
声がしたのは前方なので、俺はリミナの方を向いた時よりも慎重に体を動かし、そちらに目を向けた。そこには、さも当然の如く紙袋を頭に被り、白手袋とマフラーを身に着け、ベッドに座って本を読んでいる透がいた。俺は一瞬、あまりに突飛な光景に、自分の目が信じられなくなりそうになった。というか、紙袋を被ったままの状態で本を読めるのか。透の紙袋には、目元なども穴は開いていないのである。
「お前も無事だったんだな、良かった……ただ、あんまびっくりさせないでほしいんだけど」
疑問やら何やらを辛うじて飲み込み、やや上擦った声で俺はそう声を掛ける。透は本から顔を上げ、不思議そうに首を傾げた。そんな仕草をしてもちっとも可愛らしくはない。
「ん、驚かせてしまったのか? オレはずっとここにいたのだが。〝侵食〟の影響を受けると見られている半径五十メートル以内に入っていたので、念の為検査を受けていた」
「な、なるほど……?」
まだ心臓が早鐘を打ち、傷が痛んだせいで嫌な汗が背中を伝う。俺はそれを、ゆっくりと呼吸することによってどうにか宥めようとした。
「てか、あれってやっぱり〝侵食〟だったのか?」
オレはあの白い球体を思い出しながら、そう尋ねる。透は静かに本を閉じた。
「ああ。一週間前、公立人族自治区域第三高校は、〝侵食〟による襲撃のため、奇跡建物無事だったが、大きな人的被害を受けた。はっきりとした死傷者数は、数日経過した今でも分かっていない。一週間経過した今でも、死者数が増えているからな。異形化し理性を失った人族の生徒や教員も多数存在し、病院も手を焼いているようだ。人族の上層部は、まだ異形化した者に対する明確な法を定めていないからな。対応に困るのは、当然のことだろう」
淡々と告げられた事実は、予想よりも深く臓腑に響くようだった。
次々と脳裏を過ぎる映像に、治まっていたはずの吐き気が再び込み上げてくる。エルフ族の少女の死体、泣き叫ぶ生徒達、リミナの蒼白な顔。そして、腹部から突き出た何かの〝手〟。
俺は堪え切れず、傷の痛みすら気にせずに近くにあったゴミ箱をどうにか引き寄せ、その中に嘔吐した。胃の中には何も入っていなかったのだろう、出てきたのは胃液だけだったが、それでも喉がひくついて、俺は何度か嘔吐いた。喉が胃液で焼ける感覚がする。苦しくて、涙がぼろぼろと零れ落ちた。腹の傷が焼け付くように痛む。その痛みが更に吐き気を助長し、全身から一気に血の気が引いていく。
「いかがされましたか?」
澄んだ声と共に、細い手が俺の背を優しく擦ってくれる。いつの間に来たのだろう、看護師が俺のすぐ傍に立っていた。俺の様子に、透が見兼ねてナースコールで呼んでくれたのかもしれない。
胃の不快感と腹の痛みで、言葉を発する余裕すらない。息が苦しくて、肺が軋むように痛む。やけに遠くで聞こえる自分の呼吸音は、酷く乱れているようだった。
背を擦ってもらうと、吐き気は少しずつ治まってきた。呼吸も次第に楽になっていき、俺は看護師に手伝ってもらって、ベッドに横になる。
過呼吸を起こして酸欠にでもなったのか、頭痛がする。特に、側頭部がずきずきと痛んでいる。何か、とても大切なことを忘れてしまったかのような、奇妙な空隙が胸にあった。回らない頭でそれを思い出そうとしても頭痛が酷くなるばかりで、俺は思い出すことを断念せざるを得なかった。油断するとまた、胃の中身をぶち撒けることになりそうだったからだ。
「もう、大丈夫です……ありがとうございます」
ベッドに横になった俺は看護師にそう言ったものの、発した声は掠れている上に弱々しく、どう聞いても大丈夫そうには聞こえない。自分でも笑ってしまいそうなくらい、見え透いた虚勢だった。
案の定、看護師は心配そうな表情で俺を見つめている。
「心身ともにダメージを受けていらっしゃるので、まずは安静になさってください。鎮痛剤が必要な時や何か御用がありましたら、遠慮なくナースコールを押してくださいね」
それでは、と看護師は静かに病室を去っていく。患者に大丈夫だと言われると、彼女達は撤退せざるを得ないのだろう。俺は呆然と、病室のやけに白い天井を仰いでいた。
「済まない、夜絃。配慮が足りなかった。もう少し、精神状態を考慮すべきだったな」
透が申し訳なさそうにそう声を掛けてくる。俺は大きく息を吐いた。
「いや、別にお前のせいじゃねぇよ。ちょっと色々思い出しちまっただけだから。教えてくれたのは、すげぇありがたいし。何も知らねぇのは、不安だったからさ」
呟いた声は、先程よりも元気そうには響いたものの、少し掠れていた。
「それならいいんだが……」
透はそれ以上何も言えなくなったのだろう、つられて俺もそれきり黙り込み、病室に沈黙が降りる。リミナはこんな状況でも眠っているのだろうか、隣から規則正しい寝息が聞こえていた。
俺は、自分が酷く疲弊しているのをひしひしと感じていた。心も擦り減っている上に、体も怪我を負い、本調子とはお世辞にも言い難い。こういう時は、何も考えないようにするのが一番なのだろう。そう思い、俺は規則正しくこだまする電子音に耳を傾けた。
心電図の電子音は、三人分なのだろうか。ややテンポの異なる音が、重なって響いている。頭痛は既に引いていたものの、頭全体が重怠く、眠気を感じていないはずなのに、瞼を持ち上げ続けることが妙に億劫だった。ちょうどいい、このまま眠ってしまおう。
俺は重い瞼を持ち上げることをやめ、目を閉じた。視界が暗闇に包まれ、次第に音が遠ざかっていく。過敏になっている精神が、少しずつ落ち着いていく感覚。眠りはゆっくりと、俺の意識を優しく攫っていった。