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1-8

 ふっと、不意に意識が覚醒する。目を閉じてすぐに目が覚めた気がして、眠りが浅かったのだろうかと訝しむも、目に映った光景によって、どうやらそういう訳でもないらしいと理解する。

 どうやら俺は、体感と違い、随分長く眠っていたようだ。日が沈んだのか、明るかった病室はいつの間にか暗闇に包まれている。消灯時間を過ぎたのだろう、病室の電灯は全て消えていた。周囲は真っ暗なはずだが、不思議なことに今日は夜目が利くのか、俺はくっきりと病室内の様子を見ることができた。

 腹部の傷に気を付けながら、ゆっくりと体を起こす。眠る前は、安静にしていても鈍い違和のようなものがあったが、今は違和どころか痛みすら殆ど感じなかった。俺の左腕には点滴がいくつも刺さっており、恐らくその中に鎮痛剤も含まれているのだろう。それが良く効いているのだろうか。今なら立ち上がることもできるかもしれない。

 この病室にはベッドが四つ置いてあり、俺が一番扉に近い位置のベッドに寝ているようだった。窓側のリミナのベッドの前には、空のベッドがぽつんと置いてあるだけで、布団もなければ、誰かが眠っていた形跡もない。そのことを不思議に思ったが、特に深く考えず、俺はぐるりと病室を見回した。

 隣のベッドでは、リミナが何かの動物を模したぬいぐるみをぎゅっと抱き締めた状態で、すやすやと眠っている。透は、眠る時も紙袋が必須らしく、その顔を見ることはできなかったが、聞こえてくる呼吸は穏やかなので恐らく眠っているのだろう。眠りに包まれた病室にはゆったりとした空気が流れている。その中でただ、電子音だけが鋭く鮮明に響いていた。

 よく眠れたおかげなのだろうか、頭が妙に冴えていた。そのため俺は、眠る前に聞いた透から聞いた話を、やけに落ち着いた心持ちで反芻することができていた。

 学校を突如襲ったあの白い球体は、〝侵食〟ということで間違いないのだろう。そうなれば、あのエルフ族の少女の首が突然消滅したことや女子生徒の下半身が突如消滅したことにも説明がつく。彼女達は単に殺されたというより、その部位そのものを〝侵食〟されたのだろう。

 異形化した生徒を俺は直接見た訳ではないが、それも〝侵食〟の影響によるものだろう。他種族がどうなのかは知らないが、人族は〝侵食〟に近づくだけで、細胞に多大な影響を受けると聞いたことがある。その影響の受け方には個人差があるようだが、異形化した者に対する治療法はまだ確立されていない上に、異形化した者は何の処置も受けないでいると、体が細胞の変化に耐え切れず、約五時間で死に至るそうだ。つまり人族は、運良く〝侵食〟を受けずに逃れたと思っても、数日後に異形化して死に至る可能性も、全くない訳ではないのである。

 ここで気になってくるのが、俺を貫いたあの〝手〟が、本当に〝侵食〟のものだったのかということだ。

 もしもあの〝手〟が〝侵食〟のものなら、俺は〝侵食〟に直接触れてしまっていることにならないだろうか。つまり、単に近づいたことで受ける影響よりも、更に強い影響を受けているはずだ。それならすぐにでも異形化し、死に至っても何らおかしなことではないはずである。

 生きていること自体は勿論望ましいことではあるし、ほっとしているのだが、そこが俄かに気になってきたのだ。

 何か、俺には見落としていることがあるのだろうか。

 そもそも、異形化については、何故起こるかは分かっているものの、その条件自体は分かっていない。細胞がどの程度〝侵食〟されれば異形化するのか、そこは未知数なのである。

 そう、〝侵食〟について、俺達は知らないことがあまりに多い。

 俺は改めて、あの白い球体を脳裏に思い浮かべた。

 〝侵食〟――彼女は一体、何者なのだろう。彼女は本当に、この世界を侵略しに来たのだろうか……?

 そう考えたところでふと、俺は違和感に気付く。何故俺は、〝侵食〟が女性の姿をしていると、確信を持っているのだろう――?

「……ッ」

 ずきり、と鋭くこめかみが痛み、思わず小さく息が漏れる。それを皮切りに頭痛が酷くなっていき、俺は頭を抱えてベッドの上に蹲った。

 これは、俺の記憶なのだろうか。断片的な映像が脳内に流れ出す。

 白い世界。

 ただ映像を見せられているだけのような、視覚情報だけしか機能していない奇妙な感覚。

 学校で見たものと同じ、白い球体。

 銀髪の美しい少女。

 彼女との会話。

 ――クレア。

 そうだ、俺は奇妙な夢を見たのだ。そこで彼女と、クレアと出会った。何故、忘れていたのだろう。

 いや、今思い返せば、あれは夢ではなかったのかもしれない。

 透の言葉を思い出して、俺はそう思い直し、確信に似た心持ちで思考を回す。

 彼は、俺が一度〝侵食〟に取り込まれたと言っていた。彼は恐らくその光景を目の当たりにしたのだろう。もしそれが事実であるのならば、俺は〝侵食〟の内部に入り、彼女と接触した可能性がある。そうなるとクレアは、俺が作り出した都合の良い夢の人物などではなく、〝侵食〟の本体、いや、〝侵食〟そのものだと言えるのではないか――?

 馬鹿げた仮説に過ぎないのかもしれないが、妙な確信があった。

 〝侵食〟は生命体で、侵略者などではなく、彼女が語った通り、本当に全てを理解したいだけなのだとしたら。

 俺は、彼女を悪者だとは思えなかった。彼女はただ、やり方を間違えているだけだ。対話だって可能だった。それならば、俺達は〝侵食〟と共存することも可能なのではないか。

 当然だが、問題は多い。そもそも、〝侵食〟と接触する方法を俺は知らない。仮に接触して説得できたとしても、これだけ多くの被害を出した彼女を、皆が受け入れるだろうか。いや、そもそも彼女が〝侵食〟だという証拠も、あれが夢ではないという証拠も、何もない。

 それでも俺は、彼女が〝侵食〟だと強く確信してしまっている。俺はこれ以上、彼女に〝侵食〟を起こしてほしくないと思い始めていた。

 ――彼女を止めなければ。

 ああ、そうか。俺はこれ以上、彼女に殺人を犯してほしくないのだ。彼女にこれ以上、罪を重ねてほしくなかった。

 我ながら身勝手な理由だ。加えて、馬鹿げた仮説にも程がある。一度死にかけたせいで、俺は何処かおかしくなってしまったのかもしれない。

 更に不思議なことに、俺はもう一度クレアに会えるような気がしていた。

彼女に会って、話をしよう。そのためにもまず、傷を治さなければ。

 そう結論が出ると、妙にすっきりとした心持ちで、俺はベッドに横になる。とはいえ、眠れる気はしなかった。眠気が全くない上に、不思議な気分の高揚がある。体を動かしても腹の傷が全く痛まないのも、今になってようやく気になり始めた。

 俺はもう一度体を起こし、入院服の上着をはだけてみた。腹部の包帯は俺が眠っている間に一度取り換えられたのだろうか、綺麗に真っ白で、薄く血が滲んでいる様子もない。あれだけの傷だ、いくら鎮痛剤が効いていようと少しは痛んで然るべきだろう。

 俺は少し躊躇ってから、思い切って包帯に手を掛けた。包帯を解き、傷口の様子を確認しようと考えたのだ。

 包帯を解き終わった俺は、思わず目を見開いた。何故なら腹部は以前のように滑らかで、何の傷も見当たらなかったからだ。

 昼間は、少し身動きしようものなら鈍く痛みが走り、下手な動きをすれば激痛に苛まれた。安静にしていても、じくじくと疼くような違和は消えずにずっとあったはずだ。人族の治癒力は他種族に比べて一番低く、また、高度に発展した科学技術を駆使しても、一晩であの大きさの傷を治せる事例は聞いたことがない。一晩で治るのなら怪我人を入院させる必要がなくなるのだから、まだその技術は確立されていないとみて間違いないだろう。

 考えられる一番の可能性は、俺の体に何か異変が起こっている、ということだろう。

 俺は慌てて、自分の手や足、ここには鏡がないので顔を触り、外見に何か異変が起きていないか、大雑把な方法だが確かめてみる。異形化した人族を見たことがないので正確なことは分からないが、確認しても特に外見に大きな変化はないように思う。額から角が生えている訳でもないし、歯が鋭く尖っている訳でもない。至って普通、いつも通りの俺の体だ。

 焦りを帯び始めた思考を落ち着けようと、俺は大きく息を吐き出した。今ここで、一人で不安になっても仕方がない。ナースコールを押すか少し迷ったが、窓の外の空が白んでいるのが見えたので、俺は包帯を巻き直した。朝が来るまで、大人しく目を閉じて横になろう。

 目を閉じれば眠れるかと期待したものの、そんなこともなく、時間はいつも以上にゆっくりと過ぎていく。

 遠くで聞こえ始めた足音の数が、次第に増えていく。瞼を撫でる淡い光で、太陽が昇ったことが分かった。思えば、こんなふうにゆっくりと時間の流れを感じるのは、いつぶりだろう。高校生活に忙殺されていた訳でもないが、敢えてこのように時間の流れを意識することはなかったかもしれない。

 朝が来た気配、世界が動き出す音。

 俺の日常は、もう失われてしまったのだろうか。

 学校はどうなるのだろう、再開できるのだろうか。

 クラスメイトは? 真は? 先生達は? 皆、生きているのだろうか。

 こんなに簡単に、日常に死が入り込んでくるとは思わなかった。漠然と日常は続いていくもので、平和に生きて老いて死ぬものだと思い込んでいた。

 普段なら涙の一つでも零れそうな気分のはずだが、奇妙な冷静さのせいで、泣くことはできなかった。放心とも現実逃避とも違う感覚。全ての出来事をありのまま受け止め、事実は事実だとしっかりと認識できている。ただそこに、感情が普段よりも伴わないだけだ。


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