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1-9

「……ん~……」

 不意に隣のベッドから、リミナの寝惚けた声が聞こえる。半覚醒状態なのだろうか、彼女は起き上がった訳ではなく、ごろりと寝返りを打っただけのようだ。

 ああ、そうだ。彼女は生きている。透も生き延びていた。それは間違いなく、喜ばしい事実だ。

 そう考えると、安堵のような感情がじんわりと胸中に広がっていく。やはり俺は、ただ本調子でないだけだろう。起きた出来事があまりに衝撃的だったせいで、無意識に感情を抑制しているのかもしれない。それは恐らく、心が壊れないための防衛反応だ。そうに違いない。

 と、今度は前方で、透が体を起こす気配がした。起き上がった彼はどうやら、静かに本を読んでいるらしい。透は読書が好きで、普段から難しそうな本ばかりを好んで読んでいる印象がある。彼の語彙力は、その読書量の賜物なのだろう。

 本のページを捲る音が、電子音に混ざって微かに聞こえてくる。透は一人でいる時、ずっと本を読んでいるらしい。俺は少し彼と話がしたくなって、さも今起きたふうを装って、体を起こした。

「おはよう、透」

 彼は相変わらず紙袋を被っているので、その表情はいつも通り全く読み取れない。彼は本から顔を上げて俺の方を向いた。

「ああ、おはよう。調子はどうだ?」

 気遣うような声色で、透がそう問い掛ける。俺はぐっと伸びをした。

「だいぶいいよ。もう平気だと思う。お前は?」

 そう聞き返すと、彼は本を閉じて丁寧にサイドテーブルの上に置いた。

「それは何よりだ。オレは幸い、怪我も何もなかったからな。検査結果も、今日中には出ることだろう。異常が見つからなければ、オレは今日退院予定らしい」

「ほんと、お前も無事で何よりだよ。異常、見つかんなきゃいいんだけどな」

 お互い笑い合ったのも束の間、ふと病室に重苦しい沈黙が降りる。俺は、じっと透を見据えた。

「なぁ、透」

「何だ?」

 心なしか、透の声も少し硬い気がする。俺は辺りに視線を彷徨わせてから透を見つめ、口を開いた。

「お前は、どこまで今の状況のこと知ってるんだ? その、学校のこととか、色々」

 そう言いながらも、語尾がしどろもどろになる。彼も、目の前で人が死ぬ状況に遭遇したばかりだ。本当は聞くべきではないのだろう。

 やっぱりいい、と口を開きかけたが、透がふと窓の外に顔を向けたので、結局俺は言葉を発さずに口を閉じることになった。しばらく経って彼は、俺の予想よりもずっと落ち着いた声で語り始めた。

「オレも、自分が見た状況から推測したことと、後から聞かされた情報程度しか知らない。それでも、いいか?」

「ああ、もちろん」

 俺はその念押しが、とても彼らしいと思った。透は俺の方に向き直った。

「あの時間、学校に残っていた生徒はそう多くはない。最終下校時刻間近に〝侵食〟が現れたのは、結果として幸いだったのだろう。もしこれが昼間だったら、被害はもっと大きいものになっていたはずだ」

 透の声は、いつもと変わらず落ち着いている。感情を押し殺しているのではなく、ただ努めて冷静に語ってくれているのだろう。

「残っていた生徒は、オレ達を含め百十名程度だったそうだ。教員も、半数程が残っていただけだと聞いている。残っていた生徒は、最終下校時刻間近まで練習をしていた運動部が中心だったため、その殆どが人族だったそうだ。そして全員外へと避難した結果、〝侵食〟の影響を受けるとされる、半径五十メートル圏内に入ってしまっていた」

 そこで透の声が、少しだけ揺れた。俺は口を挟むことなく、黙って彼の話を聴いていた。

「一週間、君はずっと昏睡状態だったんだ。受けた傷の深さを考えても、〝侵食〟に一度取り込まれた影響を考えても、人族である君の生存は絶望的だと医者は考えていた。何故ならその一週間の間に、〝侵食〟の半径五十メートル圏内に入った人族の生徒及び教員は例外なく、全員異形化し、その後死亡したからだ」

 その事実は、俺にそれ程衝撃を与えなかった。ただ、そうか、と思っただけだった。

 脳裏にふと、真の笑顔が浮かぶ。練習熱心な彼のことだ、きっとあの日も最終下校時刻間近まで練習に打ち込んでいたことだろう。まだ彼の安否を確認していないので確かなことは分からないが、もう彼に二度と会えないかもしれないと思っても、やはり涙は零れなかった。

 透はそこで言葉を切り、小さく俯いた。それは、何かを迷っているように俺には映った。

「どうしたんだ?」

 俺はそう問いはしたものの、ただ彼の言葉を待っていた。彼が何を言おうとして迷っているのか、何となく分かっていたからかもしれない。

「オレは一つ、全員に黙っていたことがある。いや、校長には入学時に伝えたことだが」

 透は、意を決したように紙袋を脱いだ。現れたのは、短く切り揃えられた黒髪に、紅い双眸。その瞳孔は竜族のように細長く、日の光を受けているからだろうか、淡く発光しているように錯覚した。

 初めて見た彼の素顔は、予想よりもやや童顔とはいえ、まるで絵画の中の人物のように美しく整っていた。

「オレは、人族ではない。竜族の者だ。黙っていて、済まない」

 神妙な顔でそう告げる透。とはいえ、俺にそれ程驚きはなかった。俺はただ、小さく彼に笑いかけた。

「まあ、人族ではないんだろうなとは思ってたよ。だってなんか、雰囲気っつーのかな、やっぱ違う気がしたし」

「そ、そうなのか……?」

 衝撃を受けたように、透が目を見開く。彼は完璧に人族に擬態していたつもりなのだろう、何だか申し訳なくなってきた。

「具体的に何がどうっつーのは言えねぇんだけど。まあ、そういう高校だし。全然気にしなかったっていうか、むしろ、お前のそういうとこがいいんだけど。だから、黙ってて悪かったとか、思わなくていいっつーか。誰だって、言いたくねぇことの一つや二つあるわけだし」

 そう、俺はその、透の人族離れした雰囲気に惹かれたのだ。人族とは違う物の見方や考え方に、ある種の憧れを抱いたと言ってもいいかもしれない。

「オレは、竜族だと知られるのが不安だった。他種族は、竜族にあまりいいイメージを持っていないだろうからな」

 憂いを帯びたような表情で、透が目を伏せる。確かに、竜族には争いを好むものが多いと聞く。闘争を求め、過去には他種族と大規模な戦争をしていたこともあるそうだ。

 とはいえ、その種族だからといって、種族の特性を全て持ち合わせている訳でもない。あくまでそれは、全体の傾向に過ぎないのだから。

「お前がどんな種族だったとしても、お前はお前だよ。未解明現象研究部の部長で、俺の大事な友達だ。それに、教えてくれたのはすごく嬉しいよ。言いづらいことだったんだろ?」

 透がゆっくりと俺を見る。彼は、安堵したように淡く笑みを浮かべた。

「ありがとう、夜絃。これからも、オレと友人でいてくれるだろうか」

 不安げに透の瞳が揺れる。俺はにっこりと笑った。

「当たり前だろ。俺の方こそ、改めてよろしくな、透」

「ああ、よろしく」

 話がそう落ち着いたところで、俺は一番気になっていたことを透に尋ねた。

「そういや、何でずっと紙袋被ってたんだ?」

 すると透は、さも当然のことのようにこう言った。

「オレはやはり、この目が特徴的だからな。人族の姿を模倣したが、上手く隠せなかったんだ。爪も少し鋭いから、他者を傷付けてはいけないと思い、手袋をしている」

 そう言って透が白手袋を外してみせる。丸く研がれて手入れはされているようだが、彼の爪は鉤爪のような特徴的な形状をしており、人族のそれとは異なっていた。

「なるほど。けどそれなら、サングラスとかでも良かったんじゃね……?」

「ああ、その手があったか」

 盲点だったとばかりに、透がぽん、と手を打つ。俺は思わず吹き出した。

「いや、そこで紙袋って発想になんの、やっぱお前だわ。結構不便だったろ、ずっと被ってんの。夏とか暑そうだし」

 あはは、と笑いが止まらなくなる。透はむっと唇を尖らせた。

「そ、そんなに笑わなくてもいいだろう! 竜族は元々、体温が低いんだ。だから、他種族に触れられて悟られぬように、こうしてマフラーも巻いている。紙袋も、慣れれば視界が狭くて落ち着くんだ」

 透が拗ねた子供のような表情を浮かべ、ベッドの上で膝を抱きかかえる。彼は、部室でもずっと隅にいたことから察するに、やはり狭い所が好きなのだろうか。

「でも、こうやって顔見てお前と喋るの、結構いいと思うんだけどな。また紙袋被んのか?」

 こうして話してみると、透が随分表情豊かだということが分かった。それが見えなくなるのが名残惜しくてそう尋ねると、透はこくりと頷いた。

「他種族の者が君のように、オレの正体をすぐに受け入れられるとは思えないからな。そういった、避けられる面倒事は極力避けたい。それに、最早紙袋がないと少し落ち着かなくなってしまった」

「なるほど……」

 前者の理由はともかく、後者は日常生活に支障を来さないのだろうか。

 そう疑問に思ったものの、俺は何も言わずに、透が紙袋を被り直すのを見守っていた。


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