「んー、何なのです……? まだ眠いなのですよ~……」
ごろん、とリミナがこちら向きに寝返りを打つ。そういえばすっかり話に夢中になっており、彼女が眠っていることを綺麗に忘れていた。
「そろそろ朝食の時間だ。もう起きていて損はないと思うが」
透が静かな声で、諭すようにそう言う。しかしリミナはまだ半分夢の中のようで、むにゃむにゃと幸せそうに何かを呟いている。そのため、彼女に透の声が届いているようには到底見えなかった。
「んん……まだ、食べるなのです……――、――……」
後半はエルフ族の言葉なのか、俺には何と言ったのか全く理解できなかった。他種族理解を謳う公立人族自治区域第三高校でも、流石に複雑なエルフ族の言葉の授業は殆どない。魔法について学ぶ際に、少し触れる程度である。
「リミナ、起きろよ。飯の時間らしいぜ」
昨日目が覚めたばかりの俺は、まだ病院が何時に食事を提供するかなどのスケジュールを全く把握していないことに気付いた。時計に目を遣ると、時刻は午前七時前だった。そろそろだということは、朝食は午前七時頃に提供されるのかもしれない。
「ん……やいと……?」
むにゃむにゃと微睡みに浸っていたリミナが、ゆっくりと瞼を持ち上げる。彼女は寝相が悪いのか、布団が全てベッドの下に落下していた。それでも彼女は、ぬいぐるみだけは大事そうに抱きかかえているので、器用なものだと素直に感心する。
「お、起きたか? おはよう、リミナ。もう朝だぞ」
そう声を掛けると、彼女はのそりと体を起こした。寝癖の付いた金色の髪が、朝日に照らされて美しく輝いている。ただ眠そうにしているだけなのに妙に絵になるのだから、エルフ族の美しさは人族とはかけ離れている。
「おはようなのです……」
どうやらリミナは、朝が弱いらしい。しかし、彼女が学校に遅刻したという話は聞いたことがないので、誰か熱心に起こしてくれる人でもいるのかもしれない。
眠たげに伸びをする彼女の様子を眺めていると、ジジ、というノイズの後に、病棟全体に響くアナウンスが流れ始めた。アナウンスの内容は簡潔なもので、今から朝食が運ばれてくるという旨のものだった。響いた女性の声は淡々としていて、変に機械音じみていた。
アナウンスからしばらく間が開いてから、病室にノックの音が響く。
「朝食をお持ちいたしました」
柔らかな声と共に、配膳ワゴンを押した看護師が扉を開ける。そういえば目が覚めてから、何も食べ物を口にしていない。香ばしい食パンとバターの香りに、俺は今更のように空腹感を思い出した。
「ありがとうございます」
看護師はてきぱきと手際良く配膳を済ませると、失礼します、と一礼して去っていった。
朝食は、バターが塗られたトーストが二枚とヨーグルトという、至ってシンプルなメニューだ。焼かれたパンの熱によって、バターの香ばしい匂いが部屋中にふんわりと漂っている。それだけで食欲をこれでもかと掻き立てられ、腹の虫が切なげに主張してくる。いただきます、と小さく呟いてから、俺はトーストを手に取り、大きく齧り付いた。
さくっ、という小気味良い音が鼓膜に届く。鼻腔を擽るパンとバターの香りに、気付けば俺は一枚トーストを平らげていた。二枚目も同じように瞬く間に平らげ、ヨーグルトを掻き込むように食べる。食べ盛りの男子高校生にとって、この量の食事は少し物足りなく感じたが、少し胃に食べ物を入れたことで、強烈だった空腹感は幾分か落ち着いた。
ごちそうさまでした、と手を合わせてから、二人の様子をちらりと見遣る。
リミナは、パンを一口サイズにちぎって食べるという、非常に上品な食べ方をしている。そういうところは丁寧なのか、と俺は変な感心をした。
いつも紙袋を被っている透は、食事の時、一体どうしているのだろう。
そう疑問に思って透を見ると、彼は既に食事を終えており、残念ながらその疑問を解消することはできなかった。
食事を終えてしばらくぼんやりしていると、看護師が食器を回収しに来たのか、再び配膳ワゴンを押して病室に入ってきた。看護師は慣れた様子で食器を回収し、ワゴンに載せていく。その去り際に、看護師が俺のベッドの横にやって来た。
「朔月様、この後主治医が回診に参りますので、少々お待ちくださいね」
「あ、はい」
去っていく看護師の背を見送りながら、俺はまだ医師と一回も話していなかったことに遅まきながら気付いた。異形化のことなど、何と言われるか少し不安に思いつつ、医師に伝えなければいけないこともあるので、俺は大人しく主治医を待つことにした。
午前八時半を少し過ぎた頃、すらりとした長身に白衣を纏った、三十代くらいの男性が病室を訪れた。
「朔月夜絃さん、いらっしゃいますか? 回診に参りました、橘です」
「はい、おはようございます。よろしくお願いします」
橘と名乗った医師は、精悍な顔立ちをしており、医師というよりも軍人のような出で立ちだった。それとも俺が知らないだけで、医師というのは皆このように体格が良いのだろうか。思えば俺はずっと健康体で、あまり病院の世話になることもなかった。久しぶりに相対した医師の威圧感にたじろいだ訳ではなかったが、少し身構えたのは事実だ。
「こちらこそ、よろしくお願いします。早速ですが、朔月さんには今日、いくつか検査を受けてもらうことになります。その前に少し診察させてもらいますね。痛みは今、どの程度ありますか?」
橘の問いに、俺は少し言葉に詰まる。しかし、元より隠すつもりもなかった事柄なので、俺はもう正直に告げることにする。
俺はじっと、橘を見つめた。
「それが、自分でもびっくりしてるんですけど、全く痛くないっていうか……。たぶん、見てもらった方が早いと思います」
俺は入院服の前をはだけ、自分で巻き直したため少し不格好になっている包帯を解いていく。現れた腹部を見て、それまで冷静だった橘の顔に驚愕と緊張の色が走った。
しばらくの間軽く目を見開いて沈黙していた橘だったが、彼は小さく息を吐くと、真剣な表情でこちらを見つめ返した。
「少し、触ってもいいですか?」
「はい、大丈夫です」
橘が聴診器をつけ、一度俺の腹部に触れてから、何度も心音を確認する。聴診器を外した彼は、信じられないものを見るような顔で俺を見遣った。
「直ぐに検査の手配をするので、少々お待ちください。準備が整い次第、看護師に呼びに行かせますので」
そう言い残し、橘は慌ただしく去っていく。その様子を見ていたのか、透が不思議そうな声で俺に問い掛けた。
「何かあったのか?」
俺は少し迷ってから、素直に彼に事実を伝えることにした。
「実は俺、夜中に起きたんだけどさ」
「ああ」
「それで、その時確認したら、腹の傷が綺麗に治っててさ」
訪れたのは、暫しの沈黙。
「……は?」
透は、今まで聞いたこともない程間の抜けた声を漏らした。