血液検査から始まり、頭、胸、腹などの検査、その他諸々。一通り全身を隅々まで調べられた俺は、昼食を食べ終えると、どっと疲労を感じて病室のベッドにうつ伏せで横たわった。何か激しい運動をさせられたわけでもないのに、一度に多くの検査を受けると妙に疲労を覚えるのは何故だろうか。無意識のうちに気を張っているのか。それもあるのかもしれない。
「お疲れ様なのです~。疲れてるなのですねぇ」
言葉の上では労わっているが、リミナはどうやら、疲弊している俺を見てにやにやしているようだ。声に滲んで全く隠し切れていない。俺はのろのろと体を起こした。
「なんか、すげぇ疲れた……」
「ああ、本当にお疲れ様だな」
今度は透が、心から労わるようにそう言ってくれる。俺はそれに、ありがと、と小さく呟いた。
橘曰く、検査の結果は今日中に出るらしい。俺の検査を担当した医師達の顔が妙に強張っていたのを思い出し、忘れていた不安が今更のように戻ってくる。
俺の体は一体、どうなっているのだろう。やはり、〝侵食〟の影響で細胞が変化し、異形化しつつあるのだろうか。
ふと時計に目を遣ると、いつの間にか時刻は午後一時を過ぎていた。病室には、昼下がり特有の少し気怠い雰囲気の空気が漂っている。夜中から起きていることもあり、俺は瞼が重く感じてきた。
結果も出ていない状態だと不安になるのは仕方のないことではあるが、疲れ切った脳をこれ以上回転させても碌な思考が浮かばないだろう。俺は少し休息を取ろうと思い、溜息と共にベッドに身を預けた。
どのくらい眠っていたのだろう。誰かに体を小さく揺さぶられ、意識が半分程覚醒する。目を開けると、橘がじっとこちらを覗き込んでいた。
「起こしてしまって済みませんね。検査の結果だけ、きちんとお伝えしておこうと思いまして」
病室に西日が差し込んで、部屋全体が柔らかい橙色に染まっている。数時間ほどは眠れたらしい。俺は目を擦ってから、小さく頷いて体を起こした。
「はい、ありがとうございます。結果、もう出たんですか」
検査の結果と聞き、微睡みから一気に現実へと意識が引き戻される。橘は神妙な顔で、俺に一枚の紙を差し出した。
「これが、検査結果の一覧です。結論から言うと、朔月さんの体に異常は特に見られませんでした。異形化の兆候もなく、〝侵食〟に一度飲み込まれたのが信じられないくらい、綺麗な数値です」
俺はその言葉を聞きながら、渡された紙を覗き込んだ。確かに、全ての項目の数値が綺麗に正常値内に収まっている。異常がない上に健康体だということが分かり、俺はひとまず胸を撫で下ろした。
「それと、信じ難いですが、傷は完治しています。まるで、
力不足で申し訳ありません、とその言葉通り申し訳なさそうな表情を浮かべる橘。当の俺はというと、傷も完治した上に異常がないと分かった安心から、原因が分からないということはそれ程不安要素ではないと考えていた。
「いえ、ありがとうございます。そうなると、俺はいつくらいに退院できるんですか?」
「異常は何も見受けられませんし、治療の必要もないので、今日か明日にでも退院できますよ。どうされますか?」
病院としては、治療の必要がない者をこれ以上留まらせたくはないだろう。
そう考え、俺は今日急遽退院することに決めた。
リミナと透も、検査の結果何も異常がなかったようで、既に今日退院することが決まっていたらしい。異形化した患者の処置に手間取っていたせいで、病院側の対応が今日まで遅れてしまったようで、二人には医師と看護師達から謝罪があった。
特に荷物を持ってきていた訳でもないので制服姿で帰ることになったが、俺の制服はというと、腹部に大穴が空き、加えて血で汚れていたとのことで、病院側が処分してしまったらしい。どうしようかと途方に暮れたのも束の間、病院が少しサイズの大きいシャツをくれたので事なきを得た。
橘に案内されて、病院の入口へと向かう。すると、病院のロビーにある椅子に、制服姿の透が腰掛けているのが見えた。
「あれ、帰ってなかったのか?」
橘に、お世話になりましたと会釈してから透に近づき、そう尋ねる。彼は小さく、ああ、と頷いた。
「君のことが心配で待っていた。検査の結果はどうだったんだ?」
さらりとそんなことを言ってのけるのだから、紙袋さえ被っていなければ、容姿も相まって彼は女子生徒に人気があったかもしれない。などと、意味のない仮定を脳内から追い出し、俺は透に検査結果一覧が載っている紙を見せた。
「心配性だな、お前。ほら、全部正常値だぜ。健康体だわ、俺」
そう言って笑って見せると、透はほっとしたように息を吐いた。
「それは何よりだな。よかったよ」
透に聞いたところ、リミナは家族が迎えに来たようで、先に帰ったらしい。透は俺と同じく、ここから家が比較的近いとのことで歩いて帰るそうだ。
夕日で橙一色に染まる街を、透と並んで歩いていく。街は人通りが少なく、傾きかけた日の色と同じ静けさを宿していた。
約一週間前、〝侵食〟の被害に遭ったのは俺が通う高校だけだったそうだ。それでも、人々は〝侵食〟を恐れて外出を控えているらしい。報道番組でアナウンサーが淡々とそう言っていたのを、検査待ちの時にぼんやりと聞いたことを思い出す。いつもより町が静かだと感じたのは、気のせいではないだろう。
「なぁ、透」
ふと立ち止まった俺を、透が振り返る。まだ日は落ちていないはずなのに、紅く染まった街に吹いた風は既に冷え始めていた。
「どうした?」
俺は、少し迷ってから口を開いた。
「俺達、これからどうなるんだろうな」
それは問いのようでいて、ただの独り言だったのかもしれない。透はしばらく黙り込んでいたが、やがて、徐に言葉を紡ぎ始めた。
「そうだな、授業再開の目処はまだ立っていないと聞いたから、しばらくは自宅学習になるだろうな。再開の目処が立ったら、また学校の方から連絡は来るはずだから、それを待つしかないと思う」
透らしい、真っ当な意見だと思った。ただそれは、俺が聞きたかった答えとは、どうやら異なるようで。
「だよな。じゃあやっぱ、ちょっと間休みか」
へらっ、と笑みを浮かべて、俺は透にそう返す。
「その間、しっかり勉強しろよ」
なんて、真面目さが滲む透の言葉に笑ってしまう。
「夜絃」
不意に透が真剣な声で俺を呼んだものだから、俺は驚いて彼を見つめた。紙袋を被っている彼の表情はやはり分からなくて、少しもどかしい。俺はただ、透の言葉を待つしかなかった。
「どうかしたか?」
そう尋ねた瞬間、風がひときわ強く吹き、透の紙袋が飛ばされてしまう。大事なものではないのか、と訝しむも、彼はそれを追い掛ける素振りも見せずに、現れた淡く発光する紅の瞳で俺を見据えていた。
「君は、あの時のこと、〝侵食〟に遭った時のことをどのくらい覚えているんだ?」
俺には、彼の質問の意図がよく分からなかった。しばらく考えてから、俺はおずおずと口を開く。
「そうだな……腹を貫かれた辺りから、何も覚えてねぇけど。それが、どうかしたのか?」
正直にそう答えると、透は静かに目を閉じた。
「いや、何でもないよ。帰ろうか、夜絃」
ふっと表情を緩めて優しく微笑んだ透に、俺は曖昧に頷いた。
「お前、紙袋はよかったのか……?」
気になっていたので、聞いてもいいものかと悩みつつ、そう小さく尋ねる。
「ああ、家にストックはあるからな。問題ない」
先程一瞬張り詰めた空気が嘘のように、透は穏やかにそう答える。俺はただ、そうか、とやはり曖昧に頷くことしかできなかった。
俺達はそのまま他愛ない会話を交わしつつ、夕焼けに染まった街をゆったりとした足取りで歩いていった。