〝侵食〟の襲撃から二週間。
学校再開の目処は、未だ立っていない。高校から、教員の欠員により授業再開が現状困難であるとの説明の連絡があり、その間の自宅学習の範囲などもその時に連絡があった。
退院して家に帰った俺は、自室の机の上に置いてあった一枚の葉書を見て、思わずその場に崩れ落ちそうになった。それは、神薙真の告別式の案内だった。そこには、俺が昏睡している間の日付が書かれており、葬儀がとっくの昔に終わっていることを容赦なく突き付けられる。俺は目が覚めてから初めて、頬に涙が堰を切ったように止めどなく伝うのを感じた。真と俺は、まだ友人とすら言えないような、曖昧な関係だったのかもしれない。けれど、俺は彼と話すのが、確かに楽しかったのだ。強い悔恨、別れすら言えなかったというやり切れなさが、胸中にぐるぐると渦巻く。俺は胸元で葉書を抱き締めるように抱えたまま、しばらく小さく嗚咽を零した。
いくら同じような日々を重ねようと、瞼の裏にくっきりと焼き付いたあの光景は、ちっとも離れてはくれなかった。
学校から指示があった通りに課題を進めるような気力もなく、俺は近頃、街をふらふらと徘徊することに大半の時間を割いている。それは、ただの現実逃避とは似て非なるものだった。こうして歩いていれば、もしかするとクレアが俺を見つけてくれるかもしれない。いや、それも、ある種の現実逃避なのかもしれなかった。
その日も俺は普段の如く、街へと散歩に出掛けていた。行く宛は特に決めていなかった。とはいえ、習慣となっているルートを自然と足が辿るようになっているのは事実だ。
自宅周辺の住宅密集地を抜けると、坂道を下った先に公立人族自治区域第三高校の校舎が見えてくる。
あれだけの揺れがあったものの、〝侵食〟は建物に被害を与えずに去っていったのか、校舎自体は通っていた頃のまま綺麗に残っている。それなのに誰一人いない校舎は妙な寂寥感を漂わせており、もうあの日常が戻ってこないのかもしれないと俺に思わせているようだった。
学校の敷地内に足を踏み入れる気はなかった。正門には立ち入り禁止と書かれたビニールテープが張り巡らされ固く閉ざされている上に、裏門も当然だが開いていない。勿論、そういう物理的な理由もあったが、俺は純粋に、中を覗くのが怖いだけだった。まだ血痕が生々しく残っているかもしれないと思うと、とてもじゃないが近づく気にはなれなかった。あのエルフ族の女子生徒二人の遺体はどうなったのだろう、だとか、死んだ生徒達の遺体はどうなったのだろう、だとか、異形化した生徒達はどのように死んだのだろう、など、考えたくもない事柄が一斉に思考を支配するからだ。
――真の最期はどのようなものだったのだろう。
ふっと脳裏を過ぎる思考に、胸がぎゅっと強く締め付けられるような痛みを感じ、俺は顔を顰める。
心の整理をするには、二週間というのは短過ぎるようだ。すぐ目の前で人があんなふうに死ぬだなんて、思いもしなかったからだろう。自分が日常の中で老いて死ぬと思い込んでいたのと同じように、他人も日常の中で老いて死んでいくものだと思い込んでいたのかもしれない。死はいつだって背後に潜んでいて、思いもよらない瞬間に命は奪われていく。そうして命が失われたとしても、世界は何の変化も見せずに回っていく。そのことが今更のように衝撃で、残酷だが、それが事実なのだ。〝侵食〟に襲われるまで、俺もその無知な傍観者の一人だったのだから。
ぼんやりと、正門の前で足を止めて校舎を見上げる。涙が出る程の感傷に浸っている訳ではなかった。ただ、校舎から目が離せなかった。廃墟のような静けさを湛える校舎が、何故か今にも崩れ落ちそうな気がした。崩れてしまえば、もうあの日常は二度と戻ってこないような、そんな気がして恐ろしくなる。そう考えると俺は、あの平穏を愛していたのだろう。真と他愛ない話をして、訳の分からない魔法の授業を受けて、草臥れて部室に行って、リミナと透と笑い合う、そんな些細ともいえる幸福を。
退院して自宅に帰っても、母はいつも通り振る舞ってくれた。彼女は、自室に行った後、泣き腫らした顔でリビングに戻ってきた俺に、何も聞かなかった。その上、俺は生死の境を彷徨ったのだ、酷く心配を掛けたに違いない。俺の家は母子家庭で、母にとって子供は俺しかいない。昏睡状態だった俺は面会謝絶でもあったようで、母は状況を把握することすら許されなかったのだ。
帰ってきた俺に母はただ一言、生きていてよかった、と言っただけだった。聞きたいことなど、山ほどあっただろうに。外に出ることが危険視されている中で、俺がこうして外をふらふらと徘徊するのも、何も言わずに好きにさせてくれている。それが有難くて、けれどそれをどう伝えていいのか分からず、俺は彼女に何も言えないまま、ここまでずるずると来てしまっている。
家に帰らなければ、と思った。これ以上、母に心配を掛け続けるのが忍びなくなってきたというのもあるが、失われたものに縋るよりも、今ある日常を大事にしなければと、ようやく思い直せたのである。
踵を返し、帰路につこうとした俺の肩を、背後から誰かが軽く叩いた。
驚いた俺は、びくりと肩を跳ねさせる。慌てて振り返ると、そこには、オールバックにスーツ姿という出で立ちの男が立っていた。彼の後ろに控えるようにして、秘書らしきスーツ姿の女性が俺を鋭く見据えているのも目に入った。
「こんにちは。君が、朔月夜絃君かな?」
低く、ゆったりとした穏やかな声。しかしその声に安心感を見出せる程、俺は警戒心を失ってはいない。
「そうですけど……どちら様ですか?」
思わず、ぶっきらぼうにそう尋ね返してしまう。それでも彼は気を悪くした様子もなく、口元に柔く笑みを湛えたまま、胸ポケットから名刺を取り出した。
「私は、
俺は差し出された名刺を受け取り、小鳥遊啓と名乗った男をまじまじと見つめた。続いて、名刺に目を落とす。そこには、人族秩序維持部隊という仰々しい文字の下に、代表小鳥遊啓と書かれていた。彼の名前は勿論、そのような組織の名前も聞いたことがなかった。
「人族秩序維持部隊……そのような方々が、俺に何の用ですか?」
心臓が嫌な跳ね方をしている。啓は、鳶色の瞳を細めて俺を見つめていた。
「先程も言った通り、君に話があるだけだよ。言い方を変えるなら、スカウトということになるかもしれない。君の才能を見込んでのことでね。詳しくは、場所を変えて話したい。ここだと、落ち着いて話はできないだろうからね」
啓の物腰は柔らかで、声にも敵意は全く感じられない。むしろ、どうやら俺は歓迎すらされているようだ。しかし、全く心当たりのない事柄で歓迎されても、警戒が増して訝しむだけである。
「意味がよく分からないんですけど……人違いじゃないですか? 俺には、あなた方のお役に立ちそうな才能なんてないですよ」
俺は一刻も早くこの場から立ち去りたかった。本能が警告しているかのような嫌な予感がちくちくと心臓を刺すような心地がする。しかし、それを許してくれるような隙は、二人から見受けられない。特に、啓の話を無碍にすれば、俺は彼の後ろに控える女性に刺し殺されるかもしれない。俺を睨むように見ている彼女の瞳には、そのくらいの気迫があった。
「謙遜することはないよ。君だけの、特別な才能だ。その話も、場所を変えてするとしよう。お時間頂いてもいいかね、朔月夜絃君?」
丁寧な問い掛けのはずなのに、何処か有無を言わせぬ圧があった。俺は結局断り切れず、少しだけなら、と唸るように言うことしかできなかった。