「いまのヴァルハラは、スクルド姉様が全権を掌握しています」
「スクルド?」
そう尋ね返しながら懐をまさぐり、スマホを取り出して北欧神話内にその記述がないかブラウザで検索をかけてみようとした。
ところが、ベイタに破壊されているから俺の手元にはいまスマホがないのであった。
挙動不審な動作を見せてしまう。
気になる単語のメモを取ることもできないので、この場において唯一の一般ピーポーである俺が振り落とされないようにするには相応の努力が必要だぞ、と改めて腹を括り話の輪に参加しながら。
当のホルンは、ささやかに首を振りながら語る。
「私は、会ったことがありません……。彼女は指揮系統のトップにいて、末席にいた私が彼女から直接指令を受けるようなことは一度もありませんでした。代わりに、私の直属の上司であった姉からはスクルド姉様のお話をよく耳にしました」
ホルンが異界警備隊のうちの討伐隊に属していたことは知れている。巨獣を追跡・討伐するために編成された専門の部隊だ。
その直属の上司というと……、あの日巨獣が姿を現した瞬間、同時に出現していた数体のワルキューレのうちのどれかが該当するのだろうか。
「待って、エイルはどこに行ってしまったの?」
ホルンの話の続きを期待していたところ、割り込むようにオリヴィアさんがそんな言葉を問いかけた。
聞いたこともない固有名詞だ。エイル? と首を傾げていると、ホルンもまた不思議そうな顔をして呟く。
「エイル……ですか??」
「……もしかして知らないの? ホルンちゃん」
端正な眉をわずかに内側に寄せて怪訝そうな面持ちをしたオリヴィアさんは、その顔色に陰を落としながら考え込むように沈黙する。どうやらこの時点でオリヴィアさんの知っている異界警備隊と、ホルンの知る異界警備隊には齟齬があるようだ。
何も知らぬ俺には口を挟むこともできず、静かに見守る。
「妙だわ。スクルドが全権を持つなんておかしい。だってあの子の役割はワルキューレだけじゃないもの。私がいなくても、エイルが引き継ぐはず。どうしてそんなことになってしまっているのかしら……」
ぶつぶつと独語するオリヴィアさんを待つ。ホルンはホルンで、自分の発言に何か問題があったのかと気が気じゃない様子で俺の手を握り返したりなどした。
俺も握り返してひとまず安心させてやる。
そうして気まずく過ごしていると、ふいにシグルドさんからアイコンタクトが飛んできて、冷めそうなコーヒーを口にすることを勧められた。
せっかく淹れてもらったのだし、この機会に味わうことにする。
ズ、とそのまま口にする。
新鮮な酸味が強めで風味よく、鼻にスッと抜けるような上質な香りをした美味しいブラックコーヒーだ。苦いがエグ味はないのでかなり飲みやすい。
俺がミルクも砂糖も交えずに口につけたからか、シグルドさんは妙に嬉しそうに大きく頷いて再度コーヒーを口にした。
そのマイペースで優雅なところをかっこいいと思う反面、間を取り持つようなことはしてくれないのかとつい苦笑う。
オリヴィアさんは思いついたように顔を上げてホルンに問いかけた。
「そうだわ、ヘルヒヨトゥルはいる? ロタや、グーンは知ってる?」
「は、はい。ヘルヒヨトゥル姉様は執行部の管理責任者に、ロタ姉様やグーン姉様はそれぞれ、警備小隊の一番分隊と二番分隊の分隊長を勤めているはずです」
ホルンが答えていくと、オリヴィアさんはようやく安心したようにホッと息をついた。そこで目の前のコーヒーに気付いたらしく、口にする――前にドバドバと手前にあった砂糖をぶち込んでいく。
その光景には思わずどん引いてしまう。
ハッと気付いて目を向けると、シグルドさんは冷凍マグロのような顔で凍てついており、諦めの眼差しを彼女に向けていた。
………先ほどの穏やかな笑みの正体を思い知る……。
そして、俺がそんな引き攣った顔をしていたからか、こちらの反応に気付いたオリヴィアさんは「そうよね」とはにかみながら言う。
「シグマちゃんにはなんのこっちゃよね。大事なお話だし、きちんと理解できるようにまずは異界警備隊の組織図を教えましょうか」
「え……。い、いいんですか?」
理解が追い付いていなかったのはそこじゃなくコーヒーにぶち込んだ砂糖の量なのだが、願ったり叶ったりの提案だったのでいまは忘れることにする。
分からないこと尽くしの環境を変えられるのなら、貪欲に知識を求めていきたいところだ。
緊張から強張った表情で真面目に問いかける俺に対し、オリヴィアさんは優しく微笑んでこう語る。
「もちろん、だってあなたも既に当事者だもの。むしろ当然のように知る必要があるわ」
「……そう言ってもらえると、嬉しいです。聞かせてください」
正直、ここに来るまで夫妻には俺がどう思われているのか定かじゃなくて、保護したホルンに付いてきたおまけみたいに思われていたらどうしようという懸念もあったから、その言葉は素直に嬉しかった。
背筋を正し、大きく胸を張りながら改めて申し込む。
とてつもなく甘そうなコーヒーを満足げに一口含んだオリヴィアさんは、簡単に異界警備隊の仕組みを明らかにしてくれた。
「ワルキューレには独自の規定で定められた位階があって、それにより序列が決まるの。年功序列ではなく、完全な実力主義ね。下部組織は執行部と警備小隊の二つ。討伐隊は、必要に応じて臨時で編成される部隊よ」
「えっ? ち、違います! ワルキューレは、完全なる年功序列制です。だから私は一番下なんです!」
「どういうことだ?」
興味深く説明を耳にしていたが、今度はホルンが意を唱える形でここでも認識の齟齬が露呈する。
必死に訴えかけるホルンの様子は懸命で、そこには譲りたくない思いがあるように見えた。
「実力主義では、絶対にないです。年功序列だから、私が一番の下になるんです。そうじゃないと、おかしいです。それは違います……」
まるで言い聞かせるように、尻すぼみに弱々しくなっていく言葉。困り果てた様子のオリヴィアさんと目を合わせつつ、俺は彼女の手を握って声をかける。
「大丈夫か?」
「……大丈夫、です。はい……」
「ごめんなさい。どうやら私が知っているときよりも、その内情は大きく変わっているみたいね……」
オリヴィアさんは少しだけ考え込む仕草を見せると、気を取り直したように「じゃあホルンちゃん、一つ一つ教えてもらえる?」と認識のすり合わせを行った。
「いつから変わったかは、分かる?」
「分かりません……。私が生まれたときには、もう」
「トップはスクルドで間違いないのね? エイルは、どこにもいないと」
「はい……。私は初めてその名をお聞きしました」
「ホルンちゃんは、どうして討伐隊に参加できたの?」
「……空きがあったんです。人が、集まらなくて。ラーズグリーズ姉様の推薦でした。『お前は実力があるから』って」
「そう。ラーズグリーズは確かに私の時代からいたワルキューレだわ。彼女はいまの仕組みに納得行っていないのかしら?」
あの子とお話しできたらいいのだけど……、とぼやくオリヴィアさんに、俺は左手の指輪を思い出す。
そっと手を差し出した。
「これ、ラーズグリーズから貰ったものです。向こうから交信はできるけど、こちらから話しかけることはできない。ここしばらく、音沙汰もなくて心配なんだけど……」
「あら。それなら次の連絡があったとき、よかったら私にも知らせてほしいわ」
「はい。もちろん」
ラーズグリーズは裁判があると告げて以来、一度も連絡を寄越してこないのでその安否が気掛かりだった。もしやカーラが裁判に勝訴して、ラーズグリーズが負けた……なんてことは考えたくもないが、こんなにも音沙汰がないと不安にもなってくる。
気になる話もあるし、もう一度声は聞きたいものだ。
「もしこの話が本当なら、一つだけ、考えられうる可能性があるわ。スクルドのことについて」
ここで一つ、オリヴィアさんは真に迫った顔をして俺たち三人へ向けこんな背景を語る。
「あの子、一度も実戦経験がないの。それはノルニルとしての役割を兼任しているからでもあり、彼女のランクが低かったのはその配慮でもあったのだけど……。同世代のワルキューレである私もエイルもいないのなら、その妹があの子の上に付くことになる。彼女、それが許せなかったんじゃないかしら?」