スピリタスの名を持った、リタが上昇する。
世界をつなぐために。
その意思として。
スミノフはもう見えない。
錆色の町も見えない。
クロックワークの狭間と呼ばれた場所も、もう見えない。
ただ、ほの明るい光源に向かって。
上昇する感覚。
下降する感覚。
よくわからないけれど、そちらを目指している。
スピリタスの羽を羽ばたかせる。
世界をつなぐ意思。
世界がつながること。
彼は、そのイメージを作ろうとした。
雨恵の町、錆色の町を…内包する感覚。
ばらばらになった思い出を、再構築する感覚。
知らない町を行って、不安と期待を持ったこと。
誰かに出会えたこと。
役に立ったこと。
経験をいっぱいしたこと。
笑い、涙したこと。
タムとして、リタとして、様々の経験をしたこと。
思い出をつなげ、経験をつなげ、音を、風をつなげ、それは一本の物語になる。
彼はそれを内包して、羽ばたく。
思い出を、たくさんすぎる思い出を胸にしまって、彼は羽ばたく。
風間緑としての思い出ではない。
風間緑が忘れていたか、経験していなかったか。
とにかく、表側の風間緑が欠落していた感覚を、今の彼は持っている。
「僕は誰だろう」
彼はそう思った。
今、彼は、タムでありリタであり、緑でもありうる。
しかし同時に、誰でもない。
記憶がごちゃごちゃしている。
でも、彼は一人であり、同時に彼らでもある。
うまく説明できないが、皆で補い合いつつ、一人の存在を作っている。
それが今の彼なのだろう。
彼は目を閉じた。
思い出は鮮明に浮かび上がる。
黒い目の彼女は、いつもそばにいた。
笑い、涙し、守り、
いとおしい彼女。
女神となり、柱となった彼女。
彼女の思い出が、旋律を歌いだした。
心地よい子守唄だ。
どこかで聞いた旋律。異国らしい旋律。
なぜだろう。とても安心できた。
彼はその旋律と同調して、ハーモニーを作る。
彼は心で歌う。
思い出の彼女とともに歌う。
目を閉じたまま、彼女とともに歌う。
ああ、彼女は一つになった世界から外れたところにいるかもしれない。
それでも歌は残してくれた。
子守唄。きっとそうなのだ。
どこかで彼女を見つけたら、また歌おう。
きっと見つける。
黒い目を忘れない。
今度こそずっとそばにいるから。
泣いていたら涙をぬぐうし、笑っていたらともに笑い、理不尽なことには怒ろう。
たまには冗談も言うし、まじめにけんかするかもしれない。
それでも、黒い目の彼女を守るから。
心の底から、いとおしいと思うから。
世界は一つになろうとしている。
彼の中に小さな世界は内包されて、
大きな世界の一部となろうとしている。
小さな世界だ。
風は部屋一つに吹いたり、一つの世界は一つの町だったり。
それでもたくさんの人がいて、
小さな世界は動き回っていた。
みんなを見つけないと。
あの人はそのために祈ったり研究したりしていた。
つなげたりしていた人。
戦っていたりした人。
いろんな人がいたよね。
彼は微笑む。
みんなを見つけると心に約束して。
女神よ、住人よ、
僕はみんなを見つけます。
彼は心に約束し、目を開いた。
光源が近づいてきている。
そのときがくるのだ。
小さな世界を内包した彼は、今、大きな世界へと飛び立とうとしている。
羽ばたく感覚は、もうない。
ただ、光を感じる。
さざなみが聞こえる。
刻みが聞こえる。
壊れた時計が長針短針秒針が、好き勝手に動き回っている。
刻みが二つ聞こえる。
彼のもの、彼を包むもの。
彼は身体を丸めた。
大きな世界はすぐ近くにある。
もうすぐ、この居心地のいい世界ともお別れしなくてはならない。
それだけはわかっていた。
この世界は少し窮屈だ。
彼は思い出をしっかり捕まえた。