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瑠璃光。
それは、東方浄瑠璃世界の教主たる薬師如来が放つ、一切衆生の病苦を除くとされる慈悲の光輝。
だが今、この龍華寺ダンジョンの歪んだ堂内に迸る青緑の閃光は、その聖性を微塵も感じさせなかった。
否、むしろ真逆。
生命に対する冒涜ともいうべき、おぞましいまでの負の力を凝縮した破壊の奔流であった。
「お、あ゙ァァァ……う、うぐ……があ゙っ!」
探索者の一人が、その光の洗礼をまともに浴びた。
屈強なるはずの肉体が、一瞬にしてその原型を失う。
皮膚は沸騰した湯のようにぶつぶつと泡立ち、瞬く間に赤黒く腫れ上がったかと思うと、そこから腐臭を放つ膿汁がとめどなく溢れ出す。
肉は腐り、骨は脆く砕け、人の形を保つことすら叶わぬまま、どろりとした汚泥の塊へと変じていく。
断末魔の叫びすら、もはや人の声ではなかった。
喉が焼け爛れ、舌が千切れ飛んだかのような、くぐもった獣の呻き。
それが二度、三度と虚しく堂内に響いた後、ぷつりと途絶えた。
残されたのは、かつて人間であったものとは思えぬ異臭を放つ不定形の肉塊のみ。
が、堂内に残った片倉、城戸、薫子、そしてムトウを含めた連盟の探索者数名らは動じない。
探索者という“生物”は、ある一定以上の強度を超えると、死というものを卑小化する。
自身の死、他者の死を勝利のための布石と見做すのだ。
もちろん限度はある。
例えば家族、友人、恋人などの死には平静ではいられないだろう。
しかし、そうでなければ彼らは一般人とは大分かけ離れた感性を示す事が多い。
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薬師如来はその右手を施無畏印の形のまま、静かに胸の前に保持している。
左手にはさきほど投げつけたはずの古びた薬壺。
投げつければ失われるといった類のものではないらしい。
──あれも見た目は壺だが、肉体の一部ということか?
片倉はそんな推測をする。
トカゲのしっぽのように、失われればまた生えてくる。
そういうモンスターは珍しくはない。
「片倉! 押野! ムトウ! こっからが正念場だ! 奴の次の手を読め! 他の連中は左右から揺さぶりをかけろ!」
城戸の檄が飛ぶ。
声には普段のぶっきらぼうさに加え、極限状況下ならではの鋭利な響きが乗っていた。
片倉は短く頷き、ナイフを逆手に握り直す。
その目は薬師如来の微細な動きも見逃すまいと、凝然と据えられていた。
薫子は腰を低く落とし、黒髪の先端を微かに揺らめかせている。PSI能力による索敵か、あるいは攻撃の予備動作か。
ムトウは両の拳に嵌めた古びたメリケンサックをこつりと打ち鳴らした。
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薬師如来が動いた。
施無畏印を結んでいた右手をゆっくりと解き、宙空から何かを取り出す。
物理法則が滅茶苦茶だが、これもダンジョンではよくある事だ。
取り出した代物は錫杖であった。
遊行の僧が携える、金属の輪が幾重にも取り付けられた杖。
本来ならばその音で毒蛇や害虫を退け、また托鉢を知らせるための法具。
だが、この異形の薬師如来が握る錫杖は禍々しい気を放っていた。
金属の輪は錆びつき、ところどころが鋭利な刃のように研ぎ澄まされている。
杖頭の宝珠は濁った血の色に染まり、不気味な脈動を繰り返している。
まるで心臓のようだ、と片倉は思った。
薬師如来は、その錫杖を高く掲げ──床へと叩きつける。
ガシャァン! という甲高い金属音が、堂内に不協和音となって木霊した。
耳にした者の精神を直接揺さぶるような、不快な振動。
片倉は一瞬、頭痛と共に平衡感覚を失いかけたが、奥歯を噛み締めて耐える。
城戸や押野、ムトウといった者たちも勢いをそがれてしまう。
ただ、彼らに関してはその程度のダメージともいえないダメージで済んだ。
しかし連盟の探索者の一人はその音波に耐えきれなかった。
「ぐ……あ……あたまが……われる……!」
両手で頭を押さえ、その場に膝をつく。
目を見開き、口からは泡を吹いている。
尋常ではない苦悶の表情。
薬師如来は再び錫杖を振り下ろした。
すると男の頭が文字通り割れてしまう。
脳漿と骨片が飛び散り、紅い華が床に咲いた。
また一人、仲間が斃れる。
その惨状を前にしても、ムトウは動じなかった。
むしろ、その眼光は一層鋭さを増している。
「ちくしょうめ……坊主の道具で殺生とは、洒落にもならねえ!」
吐き捨てるように言うと、ムトウは床を蹴った。
煙が巻くように滑らかで、それでいて直線的な鋭さがあった。
スモーキィ・ライト。
かつて彼がリングで呼ばれた異名。
その名の通り、捉えどころのない動きで薬師如来の側面へと回り込む。
薬師如来が錫杖を薙ぎ払うが、ムトウはそれを紙一重で潜り抜け、懐へと深く踏み込んだ。
そして、放つ。
右ストレート。
鍛え上げられた拳が、薬師如来の脇腹へと叩き込まれる。
ゴッ! という鈍く、重い打撃音。
分厚い樫の木を鉄槌で殴りつけたかのような響きだった。
薬師如来の巨体が、わずかに傾ぐ。