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──通った
ムトウはそう感じる。
自分の拳は恐ろしい凶器なのだ、という充足感。
こんな得体のしれない化け物にも自分の力は通用するのだという自負。
──見てな、若造共
ムトウは城戸らに自身の力を無言で誇示する。
かつてムトウはプロボクサーだった。
リングネームは、「スモーキィ・ライト」。
煙のように捉えどころがなく、それでいて捉えどころのない右ストレートを武器にしていたことから、そう名付けられた。
彼のボクシングは派手なKOシーンこそ少なかったが、玄人筋からは高く評価されていた。
ディフェンス技術に長け、相手の動きを冷静に見極め、じりじりと自分のペースに引きずり込み──ポイントを重ねて判定で勝利する。
まさに「渋い」と評される戦巧者。
相手の長所を殺し、短所を徹底的に突く。
そのクレバーな戦術眼は、時に芸術的とさえ称された。
古参のボクシングファンや評論家たちは、彼の試合を「燻し銀の技巧」と賛美した。
だがムトウ本人はその評価に、どこか割り切れないものを感じていた。
内心では常に燻ぶるような不満を抱えていたのだ。
玄人受けするという言葉の裏には、一般の観客にはその凄さが伝わりにくい、という意味合いも含まれていることを彼は痛いほど理解していた。
満員の観客が熱狂的な歓声と共に総立ちになるような派手なKOシーン。
一発のパンチで相手を沈め、リングの中央で両手を突き上げる絶対的な強者としての姿。
そういったものへの憧れが彼の心の奥底には常に渦巻いていた。
自分のボクシングは確かに巧いのかもしれない。
だがそれは果たして、本当に「強い」のだろうか。
観客を魅了し心を震わせるような、そんな「華」が自分には欠けているのではないか。
その自己評価と周囲からの評価とのギャップが彼を苛んでいた。
もっと観客を沸かせたい。
もっと自分の力を誰の目にも明らかな形で証明したい。
相手を技巧でねじ伏せるのではなく、圧倒的な力で打ち砕きたい。
もっと。もっと。
ボクサーを引退し、探索者の世界に足を踏み入れたのはそんな渇望が嵩じての事である。
◆
「ムトウのオヤジ、柄にもなく張り切ってやがるな……」
城戸が苦々し気な様子で言う。
ムトウは流れるようなフットワークで薬師如来と超接近戦を演じていた。
薬師如来も無抵抗ではなく、印から放たれる瑠璃光や錫杖で応じるがムトウを捉える事ができない。
両者の攻防には一定のリズムが存在し、それを城戸らも感じ取っているからこそ手だしが出来なかった。
連携をとって袋叩きにするはずが、いつのまにかムトウの独壇場になっている。
──そのまま倒せるのなら、それはそれでいいんだけどな
片倉は内心でそんなことを思う。
戦い方にも色々ある。
チームワークを活かすような動きと、ムトウの様に個人で立ち向かうようなやり方は明確に異なる。
ここで下手に手を出せば、ムトウのリズムが崩れて大きな隙を晒してしまう事になるかもしれない。
そうなればそれを見逃してくれる相手ではないだろう。
「……崩れますね」
薫子がそんな事を言った。
押野 薫子は接近戦のエキスパートである。
その彼女から見て、ムトウは明らかに無理をしている様に見える。
今は圧倒しているが、あのペースでは長くは持たないだろうというのが彼女の見立てであった。
「でも……」
連盟のメンバーの一人が呟く。
「何だか凄いな、このまま押し切っちまいそうだ」
その言葉通り、ムトウはますますギアを上げていた。
◆
ムトウの拳が、薬師如来の眉間に叩きつけられた。
硬質なものが砕け散る甲高い音。
金色の顔面に亀裂が走り、そこからまばゆいばかりの青緑の光がまるで内圧に耐えかねたかのように噴出した。
──捉えたぜ、バケモンが!
ムトウは止めとばかりに拳を振りかぶる。
──どうした、若造共。俺一人でやっちまうぞ
さすがムトウさんだと、都会の探索者なんていらなかったんだと、自身に賞賛が投げかけられる光景が脳裏をよぎる。
派手に勝ちたい。
派手に倒したい。
俺の強さを、誰の目にも焼き付けたい。
そんな腹の底で燃え続ける黒い炎のような渇望。
リングの上では勝利という大義のために、常に理性で押さえつけてきた剥き出しの欲望。
薬師如来の亀裂から溢れ出す光が、まるでその渇望に呼応するかのようにムトウの身体へと流れ込んだ。