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第88話「ムトウ③」

 ◆


 ムトウの勢いは増すばかりだ。


 薬師如来の錫杖による攻撃を、彼は再生したばかりの左腕で無造作に掴み取る。


 金属が軋み、へし折れる甲高い音が堂内に響き渡る。


「はははッ! 坊主の道具なんざ!」


 ムトウの咆哮はもはや人の声というよりは深山の奥で猛り狂う獣のそれであった。


 全身からは先ほどまでとは比較にならぬほどの凄まじい気迫が、まるで湯気のように立ち昇っている。


 瑠璃光が再度、彼の腹部を焼く。


 だがムトウは意にも介さず、その光の源である薬師如来の右掌へ向かって自らの右拳を叩き込んだ。


 印を結んだままの指が砕け、金色の木片が四散する。


 典型的なワンサイドゲームである。


 ・

 ・ 


「……ダメか」


 城戸がぽつりと呟いた。


 諦念の滲む声。


「ええ、持ちません」


 隣に立つ片倉も同じような声色をしている。


 ・

 ・


 ムトウの攻勢は終わらない。


 終わらせる気がない。


 連打。


 また連打。


 フック、アッパー、ストレート。


 かつてリングの上で磨き上げた拳の技術が人ならざる力と融合し、神仏をも打ち砕く凶器と化している。


 薬師如来の仏身は、見るも無惨に破壊されていく。


 金色の装甲は剥がれ落ち、内部の木組みが露わになり、そこから漏れ出す青緑の光も次第に弱々しくなっていた。


 そしてついにその時が来た。


「これで、終いだぁああああッ!」


 ムトウは渾身の力を込めて、身を沈めた。


 全身の筋肉が爆発的に収縮し、そのエネルギーを右拳一点に集約させる。


 かつて彼を「スモーキィ・ライト」たらしめた、煙のように捉えどころのない右ストレート。


 だが今放たれんとするそれは、煙どころか、全てを焼き尽くす灼熱の太陽であった。


 拳が、唸る。


 空気が、裂ける。


 放たれた一撃は、薬師如来の胸部へと寸分の狂いもなく叩き込まれた。


 轟音。


 今までとは比較にならぬ、堂内全体を揺るがすほどの衝撃音。


 薬師如来の心臓部に、巨大な亀裂が走る。


 亀裂からはこれまで以上に眩い瑠璃光──断末魔の輝きが漏れ、奔流となって噴出した。


 ──仕留めた


 確かな手応えにムトウがタフに嗤う。


 己の拳が敵の中枢を完全に破壊し尽くしたという、絶対的な感覚。


 その感覚は過たず──


 薬師如来の仏体が、音を立てて崩れ始めた。


 頭部が、胴体が、腕が、脚が。


 まるで積み木崩しのように次々とその形を失っていく。


 溢れ出ていた青緑の光も急速にその輝きを失い、やがてぷつりと消えた。


 後にはただの金色の木片と化した瓦礫の山が残るのみ。


 静寂が戻った。


 ◆


「どうだ……どうだッ! やってやったぞ!」


 ムトウは天を仰ぎ、咆哮した。


「俺の、勝ちだぁあああッ!」


 再生したばかりの右拳を、高々と突き上げる。


 勝利の陶酔と、己の力を証明した歓喜に満ち溢れた荒々しい表情だ。


 そんなムトウはゆっくりと城戸たちの方へ振り返る。


 血走っていた眼は幾分か和らぎ、そこには得意げな子供のような笑みが浮かんでいた。


「これが、ベテランの力ってやつですよ」


 さらさら、と何かがこぼれるような音た。


 城戸はその音の正体に気づかぬふりをして、苦笑を返した。


「ああ、大したもんだぜ、ムトウのオヤジ」


 その言葉に、ムトウは満足そうに頷いた。


 再生した左腕で額の汗を拭う素振りを見せる。


「で、探索はまだ続けるんですかね?」


 そう言いながら、彼は城戸たちの方へ一歩、また一歩と歩み寄ってくる。


 その足取りは、先ほどの嵐のような戦闘が嘘のようにしっかりとしていた。


 さらさら。


 城戸は視線をムトウの足元へ落としかけたが、すんでのところで堪え、ムトウの顔を見つめ続けた。


「いや、一旦撤退しようとは思ってるぜ。さすがにな」


 城戸が言う。


 山田は意識を失い、多くの仲間が死んだ。


 このまま進むのは無謀だ。


 ムトウもその判断に異論はないようだった。


「まあ、それが無難でしょう。う、な」


 言葉が、途切れた。


 ムトウの表情が、わずかに、本当にわずかに困惑の色を帯びる。


 輪郭が、揺らいだ。


 まるで陽炎のように。


 足元から、体が、腕が、顔が──。


 さらさらと、乾いた砂になって崩れ落ちていく。


 最後に残ったムトウの瞳には、己の身に何が起きているのかを理解できないままの純粋な驚きだけが浮かんでいた。


 やがてそれも砂となり、跡形もなく消える。


 最期には人ひとりが立っていたはずの場所に砂の山と、古びたメリケンサックだけが残されていた。



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