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堂内に残された砂の山を前に、重い沈黙が広がっていた。
「ムトウさん……」
連盟の若手が膝をつき、震える声で呟く。
「ムトウ……」
別の探索者も顔を歪め、信じられないという様子で首を振った。
つい先ほどまで圧倒的な力で薬師如来を圧倒していた男が、今や一握りの砂と化している。
その現実があまりにも残酷で、誰もがすぐには受け入れられずにいた。
「やるなあ、ムトウ!!」
突如として響いた城戸の声に、連盟のメンバーたちが驚いて振り返る。
城戸は両手を打ち鳴らし、拍手を送っていた。
「あれを一人で倒しちまうなんざ、ウチの甲級より強いんじゃねえか? なあ、片倉」
城戸の言葉に込められた意図を理解した片倉は、静かに頷く。
「そうですね」
ムトウは最後まで探索者として戦い抜いた。
その死を無駄に嘆くよりも、彼の功績を讃えることこそが残された者の務めだ。
片倉はゆっくりと砂の山に近づいていき──屈み込んで、砂の中から古びたメリケンサックを拾い上げる。
金属の表面には長年の使用による傷が無数に刻まれていた。
それはムトウが歩んできた戦いの軌跡そのものだった。
「ムトウさんと親しかった人は?」
片倉が振り返り、連盟のメンバーたちに問いかける。
しばしの間があって、一人の中年男が前に出てきた。
野田という名の探索者だ。
顔には深い皺が刻まれ、長年の探索生活を物語っている。
片倉は野田の前に立ち、メリケンサックを差し出した。
野田は無言でそれを受け取る。
「奥さんに、渡しておくよ」
野田の声は掠れていた。
片倉は深く頷き、一歩下がる。
壁際で手当を受けていた山田が、ようやく意識を取り戻した。
「う……」
低い呻き声と共に瞼を開け、ぼんやりと周囲を見回す。
連盟のメンバーが駆け寄り、状況を伝え始めた。
ムトウの奮戦と最期。
薬師如来の撃破。
全てを聞き終えた山田は深い溜息をついた。
「そうか、ムトウまで……」
その声には隊長としての責任の重さが滲んでいる。
城戸が山田に歩み寄った。
「どうする? あんたらは一旦撤退するか?」
山田は壁に背を預けたまま、苦渋の表情で頷く。
「そうだな。死人が出過ぎた。……あんたら?」
疑問符を含んだ視線が城戸たちに向けられる。
城戸は肩をすくめた。
「ああ、俺たち東京組は無傷なんでな。それに手ぶらでってわけにはいかねえのよ。ある程度結果を出さないとあっちで干されちまう」
山田は眉をひそめる。
「お前と片倉さん、それに押野さんだけでか? 危険だぞ」
たった三人でこの異常なダンジョンを進むというのは、確かに無謀にも思える。
城戸は首を振った。
「まあそうかもしれねえが、なるべく戦闘は避けるつもりでいるぜ。っていっても片倉と押野にはまだ確認はとってないんだけどな。二人が引き返そうってンなら俺も戻るさ。どうする?」
城戸の問いかけに、薫子が即座に反応した。
「私は引き返したいですね」
率直な返答だった。
企業探索者として冷静にリスクを計算した結果だろう。
城戸は軽く頷き、片倉に視線を移す。
「そうか、片倉は?」
片倉は一瞬の逡巡の後、口を開いた。
「俺は──……付き合いますよ、城戸さん」
その返答に薫子が小さく息を呑む。
「え……うーん……」
彼女は片倉の横顔を見つめ、何か考え込むような素振りを見せた。
やがて城戸に向き直る。
「そうですか、城戸さん、探索はどのくらい進めるつもりですか?」
「いや、浅層までだな。すぐ終わると思うぜ」
城戸の言葉は楽観的だったが、根拠がないわけではない。
薬師如来という強敵を倒した今、しばらくは大きな脅威に遭遇する可能性は低いはずだ。
薫子は少し考えてから頷いた。
「そうですか、それなら私もついていきます」
「よし、決まりだな」
城戸が満足そうに手を打つ。
ダンジョンでは挑戦から背を向けると碌なことがない。
それは探索者なら誰もが知る鉄則だ。
臆病風に吹かれて逃げ出す者を、ダンジョンは決して許さない。
新たな罠が生成されたり、奇妙な脱力感に襲われたり、道が歪んで出口を見失ったり──そういった"干渉"が起きるのだ。
だが今回の場合は違った。
山田たちの撤退は臆病によるものではない。
仲間の死という重い代償を払い、薬師如来という強敵を打ち破った上での戦略的撤退だ。
そういった正当な理由がある場合、ダンジョンも特別な干渉はしてこない。
挑戦を放棄したのではなく、一時的に退いて態勢を立て直すだけ。
その違いをダンジョンも理解しているかのようだった。
山田が立ち上がろうとして、よろめく。
連盟のメンバーが慌てて支えた。
「無理すんな、山田さん」
「ああ……すまん」
山田は苦笑しながら、改めて城戸たちを見る。
「気をつけろよ。このダンジョンは……普通じゃない」
「分かってるさ」
城戸の返答は素っ気ない。
連盟の探索者たちは負傷者を支えながら、ゆっくりと堂の出口へ向かい始める。
野田はメリケンサックを大切そうに懐にしまい、最後に一度だけ砂の山を振り返った。
その場所にはもう、ムトウの痕跡は何も残っていない。
ただ細かな砂粒が、かすかな風に舞っているだけだった。
やがて連盟の面々が堂を後にし、静寂が戻る。
残されたのは城戸、片倉、薫子の三人だけ。
金色の薬師如来があった場所には、木片と金箔の破片が散乱している。
それらは既にただの物質と化し、先ほどまでの禍々しい気配は微塵も感じられなかった。
「さて」
城戸が片倉たちを見る。
「嫌な仕事はさっさと済ませちまうに限る」
城戸は本当に嫌そうに、そうつぶやいた。