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第89話「城戸①」

 ◆


 堂内に残された砂の山を前に、重い沈黙が広がっていた。


「ムトウさん……」


 連盟の若手が膝をつき、震える声で呟く。


「ムトウ……」


 別の探索者も顔を歪め、信じられないという様子で首を振った。


 つい先ほどまで圧倒的な力で薬師如来を圧倒していた男が、今や一握りの砂と化している。


 その現実があまりにも残酷で、誰もがすぐには受け入れられずにいた。


「やるなあ、ムトウ!!」


 突如として響いた城戸の声に、連盟のメンバーたちが驚いて振り返る。


 城戸は両手を打ち鳴らし、拍手を送っていた。


「あれを一人で倒しちまうなんざ、ウチの甲級より強いんじゃねえか? なあ、片倉」


 城戸の言葉に込められた意図を理解した片倉は、静かに頷く。


「そうですね」


 ムトウは最後まで探索者として戦い抜いた。


 その死を無駄に嘆くよりも、彼の功績を讃えることこそが残された者の務めだ。


 片倉はゆっくりと砂の山に近づいていき──屈み込んで、砂の中から古びたメリケンサックを拾い上げる。


 金属の表面には長年の使用による傷が無数に刻まれていた。


 それはムトウが歩んできた戦いの軌跡そのものだった。


「ムトウさんと親しかった人は?」


 片倉が振り返り、連盟のメンバーたちに問いかける。


 しばしの間があって、一人の中年男が前に出てきた。


 野田という名の探索者だ。


 顔には深い皺が刻まれ、長年の探索生活を物語っている。


 片倉は野田の前に立ち、メリケンサックを差し出した。


 野田は無言でそれを受け取る。


「奥さんに、渡しておくよ」


 野田の声は掠れていた。


 片倉は深く頷き、一歩下がる。


 壁際で手当を受けていた山田が、ようやく意識を取り戻した。


「う……」


 低い呻き声と共に瞼を開け、ぼんやりと周囲を見回す。


 連盟のメンバーが駆け寄り、状況を伝え始めた。


 ムトウの奮戦と最期。


 薬師如来の撃破。


 全てを聞き終えた山田は深い溜息をついた。


「そうか、ムトウまで……」


 その声には隊長としての責任の重さが滲んでいる。


 城戸が山田に歩み寄った。


「どうする? あんたらは一旦撤退するか?」


 山田は壁に背を預けたまま、苦渋の表情で頷く。


「そうだな。死人が出過ぎた。……あんたら?」


 疑問符を含んだ視線が城戸たちに向けられる。


 城戸は肩をすくめた。


「ああ、俺たち東京組は無傷なんでな。それに手ぶらでってわけにはいかねえのよ。ある程度結果を出さないとあっちで干されちまう」


 山田は眉をひそめる。


「お前と片倉さん、それに押野さんだけでか? 危険だぞ」


 たった三人でこの異常なダンジョンを進むというのは、確かに無謀にも思える。


 城戸は首を振った。


「まあそうかもしれねえが、なるべく戦闘は避けるつもりでいるぜ。っていっても片倉と押野にはまだ確認はとってないんだけどな。二人が引き返そうってンなら俺も戻るさ。どうする?」


 城戸の問いかけに、薫子が即座に反応した。


「私は引き返したいですね」


 率直な返答だった。


 企業探索者として冷静にリスクを計算した結果だろう。


 城戸は軽く頷き、片倉に視線を移す。


「そうか、片倉は?」


 片倉は一瞬の逡巡の後、口を開いた。


「俺は──……付き合いますよ、城戸さん」


 その返答に薫子が小さく息を呑む。


「え……うーん……」


 彼女は片倉の横顔を見つめ、何か考え込むような素振りを見せた。


 やがて城戸に向き直る。


「そうですか、城戸さん、探索はどのくらい進めるつもりですか?」


「いや、浅層までだな。すぐ終わると思うぜ」


 城戸の言葉は楽観的だったが、根拠がないわけではない。


 薬師如来という強敵を倒した今、しばらくは大きな脅威に遭遇する可能性は低いはずだ。


 薫子は少し考えてから頷いた。


「そうですか、それなら私もついていきます」


「よし、決まりだな」


 城戸が満足そうに手を打つ。


 ダンジョンでは挑戦から背を向けると碌なことがない。


 それは探索者なら誰もが知る鉄則だ。


 臆病風に吹かれて逃げ出す者を、ダンジョンは決して許さない。


 新たな罠が生成されたり、奇妙な脱力感に襲われたり、道が歪んで出口を見失ったり──そういった"干渉"が起きるのだ。


 だが今回の場合は違った。


 山田たちの撤退は臆病によるものではない。


 仲間の死という重い代償を払い、薬師如来という強敵を打ち破った上での戦略的撤退だ。


 そういった正当な理由がある場合、ダンジョンも特別な干渉はしてこない。


 挑戦を放棄したのではなく、一時的に退いて態勢を立て直すだけ。


 その違いをダンジョンも理解しているかのようだった。


 山田が立ち上がろうとして、よろめく。


 連盟のメンバーが慌てて支えた。


「無理すんな、山田さん」


「ああ……すまん」


 山田は苦笑しながら、改めて城戸たちを見る。


「気をつけろよ。このダンジョンは……普通じゃない」


「分かってるさ」


 城戸の返答は素っ気ない。


 連盟の探索者たちは負傷者を支えながら、ゆっくりと堂の出口へ向かい始める。


 野田はメリケンサックを大切そうに懐にしまい、最後に一度だけ砂の山を振り返った。


 その場所にはもう、ムトウの痕跡は何も残っていない。


 ただ細かな砂粒が、かすかな風に舞っているだけだった。


 やがて連盟の面々が堂を後にし、静寂が戻る。


 残されたのは城戸、片倉、薫子の三人だけ。


 金色の薬師如来があった場所には、木片と金箔の破片が散乱している。


 それらは既にただの物質と化し、先ほどまでの禍々しい気配は微塵も感じられなかった。


「さて」


 城戸が片倉たちを見る。


「嫌な仕事はさっさと済ませちまうに限る」


 城戸は本当に嫌そうに、そうつぶやいた。

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