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城戸の踏み込みは鋭かった。
床石を蹴る音が堂内に響く。
ナイフが銀の軌跡を描き、片倉の喉元を狙う。
片倉は半身を捻って躱す。
髪の毛先を刃が掠め、数本が宙に舞った。
「やっと本気になったか、片倉」
城戸が血の滲む脇腹を押さえながら言う。
その声には奇妙な満足感が滲んでいた。
片倉は答えず、再び斬りかかる。
上段からの振り下ろし。
重い一撃だが、城戸はそれを紙一重で躱す。
刃が床石を叩き、火花が散った。
しかしその時。
城戸の目に異様な光景が映った。
片倉の背後に複数の人影が立っている。
眼鏡をかけた女性。
人の良さそうな中年男。
快活な雰囲気の若い女。
他にもいる。
──なんだ、これは……
幻覚か。
いや、違う。
城戸には分かる。
これは片倉が背負っているもの。
失った者たちの残像。
亡霊。
いや、それとも違う。
片倉自身が心の奥底に刻み込んだ死者たちの記憶が、何らかの形で顕在化したものか。
ダンジョンという異質な空間がそれを可能としたのだろう。
「はは……」
城戸の口から小さな笑いが漏れた。
──なるほどな
自分が片倉を誘った理由が、ようやく分かった気がした。
同じだ。
自分と同じように大切な者を失い、それでも前に進んでいる。
そんな片倉に無意識のうちに何かを求めていたのかもしれない。
──俺は、止めてもらいたかったのか
岩戸重工の犬として生きることに疲れ果てていた。
玲子を失い、自分を見失い、ただ言われるままに人を殺す日々。
そんな自分を誰かに止めてもらいたかった。
片倉なら──同じ痛みを知る片倉なら、できるかもしれない。
だがそれは甘えだ。
自分で自分にケリをつけられない弱さの現れでしかない。
城戸は自嘲的に口元を歪める。
片倉の刃が再び迫る。
横薙ぎの一閃。
城戸は後方へ跳躍して距離を取った。
着地と同時に前へ。
ナイフを下段から跳ね上げる。
片倉はそれを刀剣で弾く。
金属音が堂内に響き渡る。
薫子は血溜まりの中で浅い呼吸を続けていた。
その瞳は朦朧としながらも、二人の戦いを見つめている。
──なぜ
薫子の意識は混濁していたが、その疑問だけは明確だった。
なぜ城戸は自分を刺したのか。
なぜ片倉と戦っているのか。
理解できない。
だが体は動かない。
ナノ毒という城戸の言葉が本当なら、もう助からないのかもしれない。
視界が徐々に暗くなっていく。
城戸と片倉の攻防は続いていた。
互いに一歩も譲らない。
技術的には城戸が上回っているはずだった。
長年の経験と、幾多の死線をくぐり抜けてきた勘。
それらが彼の動きを研ぎ澄ませている。
だが片倉も負けていない。
怒りが彼の身体能力を限界まで引き上げていた。
普段なら躱せないはずの攻撃を、ぎりぎりで回避する。
普段なら届かないはずの間合いに、刃を届かせる。
──面白い
城戸は内心でそう思った。
これほど張り合いのある戦いは久しぶりだ。
企業の依頼で殺してきた連中は、どいつもこいつも弱すぎた。
抵抗らしい抵抗もできずに死んでいく。
それが仕事だから淡々とこなしてきたが、心のどこかで物足りなさを感じていた。
だが片倉は違う。
本気で自分を殺そうとしている。
その殺意が心地よい。
ナイフと刀剣が再び激突する。
鍔迫り合いの状態。
互いの顔が間近に迫る。
城戸は片倉の瞳を覗き込んだ。
怒りに燃える瞳。
だがその奥に、別の感情も見えた。
悲しみ。
絶望。
そして──
諦念。
また仲間を失うという諦め。
守れなかったという自責。
それらが混然一体となって、片倉の瞳に宿っていた。
──ああ、やっぱり同じだ
城戸は確信した。
この男も自分と同じように、大切な者を失い続けている。
それでも前に進むことを止められない。
ダンジョン探索者という生き方を選んだ者の、逃れられない宿命。
鍔迫り合いを解いて、二人は同時に後方へ跳んだ。
間合いが開く。
城戸は肩で息をしている。
脇腹の傷が思いのほか深い。
血が止まらない。
戦闘服が赤黒く染まっていく。
片倉も息を切らしていた。
額から汗が流れ、顎から滴り落ちる。
握るナイフが微かに震えている。
──そろそろ潮時か
城戸はそう思った。
このまま戦い続けても、どちらかが死ぬまで終わらない。
いや、死ぬのは自分の方だろう。
脇腹の傷が致命的だ。
だがそれでもいい。
むしろそれを望んでいたのかもしれない。
堂内に重い沈黙が降りる。
血の匂いが充満している。
薫子の血。
城戸の血。
そして恐らく、これから流れるであろう血。
城戸は片倉の背後を見つめた。
相変わらず人影が立っている。
死者たちの幻影。
片倉が背負い続けているもの。
──重いだろうな
他人事ではない。
自分も玲子という重荷を背負っている。
いや、重荷というのは違うか。
玲子は重荷ではない。
自分が勝手に背負い込んでいるだけだ。
玲子はきっと、こんな自分を見たら怒るだろう。
──バカじゃないの、あんた
そんな声が聞こえてきそうだ。
城戸は薄く笑った。
その笑みを見て、片倉が眉をひそめる。
「何がおかしい」
低い声。
殺意が篭もっている。
城戸は首を振った。
「いや、なんでもねぇよ」
嘘だ。
全部がおかしい。
この状況も。
自分の選択も。
片倉の怒りも。
全てが滑稽で、悲しくて、どうしようもない。
だがそれが探索者の生き様だ。
ダンジョンに魅入られ、ダンジョンに翻弄され、ダンジョンに殺される。
直接的にせよ、間接的にせよ。
城戸はナイフを構え直した。
血で濡れた刃が薄暗い堂内で鈍く光る。
片倉も刀剣を構える。
二人の間に再び緊張が走る。
だが先に動いたのはどちらでもなかった。