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第92話「城戸④」

 ◆


 城戸の踏み込みは鋭かった。


 床石を蹴る音が堂内に響く。


 ナイフが銀の軌跡を描き、片倉の喉元を狙う。


 片倉は半身を捻って躱す。


 髪の毛先を刃が掠め、数本が宙に舞った。


「やっと本気になったか、片倉」


 城戸が血の滲む脇腹を押さえながら言う。


 その声には奇妙な満足感が滲んでいた。


 片倉は答えず、再び斬りかかる。


 上段からの振り下ろし。


 重い一撃だが、城戸はそれを紙一重で躱す。


 刃が床石を叩き、火花が散った。


 しかしその時。


 城戸の目に異様な光景が映った。


 片倉の背後に複数の人影が立っている。


 眼鏡をかけた女性。


 人の良さそうな中年男。


 快活な雰囲気の若い女。


 他にもいる。


 ──なんだ、これは……


 幻覚か。


 いや、違う。


 城戸には分かる。


 これは片倉が背負っているもの。


 失った者たちの残像。


 亡霊。


 いや、それとも違う。


 片倉自身が心の奥底に刻み込んだ死者たちの記憶が、何らかの形で顕在化したものか。


 ダンジョンという異質な空間がそれを可能としたのだろう。


「はは……」


 城戸の口から小さな笑いが漏れた。


 ──なるほどな


 自分が片倉を誘った理由が、ようやく分かった気がした。


 同じだ。


 自分と同じように大切な者を失い、それでも前に進んでいる。


 そんな片倉に無意識のうちに何かを求めていたのかもしれない。


 ──俺は、止めてもらいたかったのか


 岩戸重工の犬として生きることに疲れ果てていた。


 玲子を失い、自分を見失い、ただ言われるままに人を殺す日々。


 そんな自分を誰かに止めてもらいたかった。


 片倉なら──同じ痛みを知る片倉なら、できるかもしれない。


 だがそれは甘えだ。


 自分で自分にケリをつけられない弱さの現れでしかない。


 城戸は自嘲的に口元を歪める。


 片倉の刃が再び迫る。


 横薙ぎの一閃。


 城戸は後方へ跳躍して距離を取った。


 着地と同時に前へ。


 ナイフを下段から跳ね上げる。


 片倉はそれを刀剣で弾く。


 金属音が堂内に響き渡る。


 薫子は血溜まりの中で浅い呼吸を続けていた。


 その瞳は朦朧としながらも、二人の戦いを見つめている。


 ──なぜ


 薫子の意識は混濁していたが、その疑問だけは明確だった。


 なぜ城戸は自分を刺したのか。


 なぜ片倉と戦っているのか。


 理解できない。


 だが体は動かない。


 ナノ毒という城戸の言葉が本当なら、もう助からないのかもしれない。


 視界が徐々に暗くなっていく。


 城戸と片倉の攻防は続いていた。


 互いに一歩も譲らない。


 技術的には城戸が上回っているはずだった。


 長年の経験と、幾多の死線をくぐり抜けてきた勘。


 それらが彼の動きを研ぎ澄ませている。


 だが片倉も負けていない。


 怒りが彼の身体能力を限界まで引き上げていた。


 普段なら躱せないはずの攻撃を、ぎりぎりで回避する。


 普段なら届かないはずの間合いに、刃を届かせる。


 ──面白い


 城戸は内心でそう思った。


 これほど張り合いのある戦いは久しぶりだ。


 企業の依頼で殺してきた連中は、どいつもこいつも弱すぎた。


 抵抗らしい抵抗もできずに死んでいく。


 それが仕事だから淡々とこなしてきたが、心のどこかで物足りなさを感じていた。


 だが片倉は違う。


 本気で自分を殺そうとしている。


 その殺意が心地よい。


 ナイフと刀剣が再び激突する。


 鍔迫り合いの状態。


 互いの顔が間近に迫る。


 城戸は片倉の瞳を覗き込んだ。


 怒りに燃える瞳。


 だがその奥に、別の感情も見えた。


 悲しみ。


 絶望。


 そして──


 諦念。


 また仲間を失うという諦め。


 守れなかったという自責。


 それらが混然一体となって、片倉の瞳に宿っていた。


 ──ああ、やっぱり同じだ


 城戸は確信した。


 この男も自分と同じように、大切な者を失い続けている。


 それでも前に進むことを止められない。


 ダンジョン探索者という生き方を選んだ者の、逃れられない宿命。


 鍔迫り合いを解いて、二人は同時に後方へ跳んだ。


 間合いが開く。


 城戸は肩で息をしている。


 脇腹の傷が思いのほか深い。


 血が止まらない。


 戦闘服が赤黒く染まっていく。


 片倉も息を切らしていた。


 額から汗が流れ、顎から滴り落ちる。


 握るナイフが微かに震えている。


 ──そろそろ潮時か


 城戸はそう思った。


 このまま戦い続けても、どちらかが死ぬまで終わらない。


 いや、死ぬのは自分の方だろう。


 脇腹の傷が致命的だ。


 だがそれでもいい。


 むしろそれを望んでいたのかもしれない。


 堂内に重い沈黙が降りる。


 血の匂いが充満している。


 薫子の血。


 城戸の血。


 そして恐らく、これから流れるであろう血。


 城戸は片倉の背後を見つめた。


 相変わらず人影が立っている。


 死者たちの幻影。


 片倉が背負い続けているもの。


 ──重いだろうな


 他人事ではない。


 自分も玲子という重荷を背負っている。


 いや、重荷というのは違うか。


 玲子は重荷ではない。


 自分が勝手に背負い込んでいるだけだ。


 玲子はきっと、こんな自分を見たら怒るだろう。


 ──バカじゃないの、あんた


 そんな声が聞こえてきそうだ。


 城戸は薄く笑った。


 その笑みを見て、片倉が眉をひそめる。


「何がおかしい」


 低い声。


 殺意が篭もっている。


 城戸は首を振った。


「いや、なんでもねぇよ」


 嘘だ。


 全部がおかしい。


 この状況も。


 自分の選択も。


 片倉の怒りも。


 全てが滑稽で、悲しくて、どうしようもない。


 だがそれが探索者の生き様だ。


 ダンジョンに魅入られ、ダンジョンに翻弄され、ダンジョンに殺される。


 直接的にせよ、間接的にせよ。


 城戸はナイフを構え直した。


 血で濡れた刃が薄暗い堂内で鈍く光る。


 片倉も刀剣を構える。


 二人の間に再び緊張が走る。


 だが先に動いたのはどちらでもなかった。


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