いやあ、ラスティさんの指導は本当に厳しかった。
文字の読み方は何とかなったが、扱うには文字自体をしっかりと覚え、それを再現しなくてはならない。
小学生の漢字学習をより厳しくしたような指導だった。
書き順や形状、そして文字の連なりによる文言。
それらが見本と同じ様になるまで、この指導は続くらしい。
というか、同じようにならずに適当に使うと、問題の起きるリスクが高くなるのだ。
奥の間の前で待ち続けていたマリエルとステラも退屈だっただろうが、文句一つ言わずに出迎えてくれた。
暇にならないようにそれぞれやることを抱えていたとはいえ、本当に愛すべきいい人たちだ。
――そして、
「エア、クローシェ! それとこちらの方は……?」
「主! お待たせ!」
「ただいま帰りましたわ! こちらはわたくしの兄のクローデッドですの」
「主!? ただいま……?」
教会に教えを授かりに出向いている半日ほどの間に、クローシェが兄を連れてきた。
あまりにも急な話で、状況把握が追いつかない。
事前の話では、エアとクローシェは腕を磨くために訓練をするという話じゃなかったか。
たしか、クローシェの一族は西の隣国を主な居住区域にしているはずだった。
それがなぜ王都にいるのか。
驚いていた渡だったが、驚愕の表情を浮かべているのは、クローデッドも同じようだった。
それで、これは何も事情を話されていないのだな、と渡は察することができた。
となると、クローシェについてはできるだけ冷静に話を聞いてもらわなければならない。
渡は暴れだす感情を努めておさえつけ、平静を保とうとした。
「はじめまして、堺渡です」
「……はじめまして。クローデッド・ド・ブラドです」
「クローシェのお兄さんですか。よろしくお願いします」
すげえイケメンだな……。
クローシェの兄なのだから、美形でも当然かも知れないが、同じ男として生まれて少し嫉妬してしまう格好良さだった。
背が高くスラッとしていて、全身が鍛え抜かれているのも良い。
眼帯と鋭い目つきのせいで威圧感が凄いが、渡も伊達に濃密な時間を過ごしていない。
貴族や王族と相対したり、ゴロツキに囲まれることもあった。
ジロリと見つめられても、動じることはなかった。
「兄として貴方とクローシェの関係についてお聞きしたいのだが、よろしいだろうか」
「もちろんです。まず、俺は行商人をしていて、この国のモイー卿の御用商人でもあります」
「ほう……若いながらに素晴らしい実績を持っているんですね。それでクローシェとの関係は?」
「俺はクローシェの主人ですね。正当な権利を持って、奴隷として彼女を所有しています」
「は……?」
ビリビリと肌で感じるほどの殺気を叩きつけられた。
エアたちがいなければ、即座に腰を抜かして倒れていたのではないだろうか。
クローデッドの目が据わり、今にも激昂して飛びかかってきそうな雰囲気を漂わせながらも、その一歩をしっかりと抑制していた。
それにはエアとステラが渡の左右に立って、それとなく警戒してくれていたことも大きな要因になっていただろう。
クローデッドの鋭い眼光が、クローシェへと注がれる。
「クローシェ、どういうことだ。どうしてお前が奴隷になっている」
「ひいいっ!? こわい、怖いですわ!」
「クローシェ! 答えなさい! 黒狼族の恥を晒すつもりかっ!」
キュイ~ンと鳴いたクローシェが尻尾を股に挟んで、情けなく縮こまっている。
よほど怖い思いをしていたのか、これまで見たこともない……いや、結構あるな。
よく考えてみれば何度も見たことのある情けない姿だ。
「あくまでも俺の見聞きした範囲でよければ話しましょうか? クローシェ本人ではないですから、一部は憶測混じりになるでしょうか」
「よろしくお願いする」
ふう、と溜息をついたクローデッドが、それでも話を聞く姿勢になった。
よかった、急に襲われなくて。
クローデッドは兄ということもあって、クローシェよりはまだ衝動的ではないようだ。
渡は記憶をたどり、自分なりの視点から事情を説明した。
渡の記憶では七、八ヶ月ほど前のことだと言うのに、もうずっと前のことのように感じるのは、渡がそれだけ濃密な時間を過ごしてきたからだろうか。
クローデッドは立派なフサフサした尻尾を、バサリバサリと苛立たしそうに大きく動かしていたが、それでも目をつむり、しっかりと頷いて聞く姿勢を崩さなかった。
やがて事情を説明し終えると、あまりな経緯に呆れたのか、クローデッドははあ、と長い溜息を吐いた。
「つまり、うちの愚妹が早とちりした挙句、勝負を吹っ掛けて、あまつさえ負けて奴隷になったと」
「まあ……端的に言うとそうなりますかね。エアを救いたい一心だったのでしょうが」
「ううう……あのときの私は平静を欠いていたのです……」
「馬鹿者。戦士が平静を欠いていて言い訳になるか。最後の一線は冷静さを残しておけ」
「ギャフン……!」
リアルにギャフンって言う人初めてみたな、と渡は妙なところで感心した。
あるいは狼や犬の種族だからこそなのだろうか。
ここまでは比較的に冷静に話をすることができたが、事情を話し終えたあと、どういう行動に出るのか、渡るには読めない。
エアとステラの警戒が強まり、空気がヒリついた。
「身内に奴隷を出すのはあまりにも恥。厚かましい願いではあるのは重々承知しているが、この愚妹を奴隷から解放してもらえないだろうか」
意外にもストレートに、クローデッドが願い出る。
さて、ここで交渉をしくじれば、大事になりそうだ。
あるいは血を見ることになるかも知れない。
上手く行くには、はたしてどう話を転がせば良いのか。
渡は緊張と軽い興奮に、ぺろりと舌を舐めた。
あるいはそれを、舌舐めずりと呼ぶのかも知れない。