■その90 鏡の中の『私』、それは願望(後) ■
周りの鏡から
「他の人も来るし、具合が悪いなら、非常口から…」
「甘えて、いいですか?」
「手を繋いで歩くか? 背負うか? 俺としては、抱き上げたいんだが?」
「顔、泣いちゃってぐちゃぐちゃだから… 手を繋いでほしいの」
主ぃ… 三鷹さんは、そんな事は気にしませんよ。それに主、ぐちゃぐちゃって言ってもお化粧してないから、目や鼻が赤いぐらいじゃないですか。
「分かった」
三鷹さん、主が僕をリュックに仕舞ってから、主の左手を取りました。
主の薬指におさまっている緑の指輪に唇を落としてから、小さな手を大きな熱で包み込んで、ゆっくりと歩き始めました。
主は何を言おうとしたんでしょうか? 小さな口を、金魚のようにパクパクさせました。
「鏡が怖いか?」
「夏休みの事、思い出しちゃって… 後輩の二人は忘れちゃったみたいなんだけれど、私は覚えているから」
少し戸惑って三鷹さんが聞くと、主はちょっと声のトーンを落としました。
「家の鏡は平気なんだけれど、合せ鏡が怖くて。… 今度こそ、食べられちゃうかも。って…」
「食べられる?」
主は思い出したんです。あの黒い影とは別に…
「鏡が割れて、三鷹さんに連絡した時、雑音が酷くて聞こえなかったんだけれど… それが収まった瞬間、ザラザラした声がしたの。男の人か女人か、若いのかお年寄りなのかもわからない声。『食べたいなぁ…』って、言って… 三鷹さんの私の名前を呼ぶ声で、我に返ったの」
思い出して、主の体が少し震えていました。三鷹さんは、そんな主を双子君達にするように抱き上げて、自分の顔の少し上まで主の顔が来るようにしました。左手は、しっかり握ったまま…
「三鷹さん?」
「それは、俺の願望だ」
主の視界が、三鷹さんでいっぱいになります。三鷹さんの視界が、主でいっぱいになります。
「俺も、
俺は… 桜雨が卒業するまでと、我慢している。その軟らかな頬を、手で包むこと。柔らかな髪に、前髪に隠れた額に、瞼に、小さな鼻の頭に、頬に…口を落とすこと。小さな唇を、その細い首筋を貪って…」
三鷹さんの瞳に、主の見たことのない熱が籠っていきます。小さな体を抱き上げて、しっかりと支える手や腕も熱と力がこもります。それらの熱は瞳越しに、繋いだ左手から主に移りました。ドキドキと、さっきとはまるで違う胸の鼓動が、主の耳に響きます。
「桜雨を全部、食べたいんだ。髪も、声も… 心も。
だから、あの声が言った言葉は、俺の願望だ」
熱く強く真っすぐに… 自分を見つめる瞳に、主はすっかり飲み込まれて、喉の渇きを覚えました。
「私…」
主の目尻が困った時のように、切ないように、いつもより下がりました。
「出会って、「梅吉お兄ちゃんのお友達」から、「水島さん」になって、「三鷹お兄ちゃん」になって、今は「三鷹さん」だ。ここまで我慢した。だからもう少しだけ、
三鷹さんは、繋いでいた左手をお互いの視線の真ん中まで持ち上げて、主を見つめたまま、薬指の指輪に軽く唇を付けました。
「… も、もう、怖くないデス」
完全に、キャパオーバーです。主、頭から湯気が出ているんじゃない? て言うぐらい首まで真っ赤にして、ヘニャヘニャ~と、三鷹さんの背中の方 へ顔を下げました。三鷹さん、そんな主を確り抱いたまま、出口に向かって歩き出しました。
「そうか。それは、良かった」
その顔は、少しだけ頬が緩んでいました。