■その288 笠原義人・3年B組担任としての時間■
3年B組担任の笠原
今のアパートに引っ越ししてから、衣食住が充実したおかげで、ほどよく身体中の肉も付きましたし、髪や肌艶も良くなったと自覚していました。しかし今、パソコンの隣に置いてある折り畳みの鏡に映る顔は、肌もくすんでいるし、眼鏡をかけていても酷いと分かるくらいのクマ… 生徒達が俺に付けた『骨格標本』の通り名に戻りましたね。
「笠原、生きてる~?」
お気楽に声をかけて来た
「骨格標本が、リズミカルにタイピングが出来るとでも?」
「お~、いい感じに、出来上がってんな。お前も
健康維持のために、桃華も白川も受けていますからね、体育の授業は。1時間目から、生徒に混ざって走る時間はありませんよ。こちらは忙しすぎて、アパートの
梅吉は笑いながら隣に座ると、隣の書類の山に手をかけます。そうですよね、貴方も、書類整理が溜まっていますよね。
「ストレス? そんなものは3年の担任なら、当たり前の事でしょう? 当の本人の生徒達は、これ以上に悩んで頑張っているのですから、担任ごときが弱音を吐けるわけがないでしょうに」
少しの時間でいいですから、桃華と一緒に珈琲を飲みたいのが本音ですけれど。あと少しの辛抱ですからね。
1月にあった共通テストの結果を見て、そのまま合格が決まる生徒がいれば、希望大学を変更したり、結果に落ち込む生徒を励ましながら受験の追い込みのために特別講習をしたり… また、大学受験だけではなく、専門学校を受験する生徒や、少ないですが就職希望の生徒もいます。2月の今日まで、クラスの8割も進路が決定していますが、後の2割は最後の勝負と言ったところです。
他にも、卒業が決まっているものの科学の単位が足りない生徒の為の補習… 気持ちも体も休まる時がありません。
「正月休みが無かったら、本当に骨と皮になってたんだろうな。なぁ、骨格標本とミイラって、どっちが痩せてるんだ? まぁ、どっちにしろ、その猫背でお前だって直ぐに分かるな。」
「時間に余裕があるようですから、高浜先生のお手伝いをしてはいかがですか? 今年の入試の試験官と会場手伝い、お探しでしたよ」
さすがに、眼精疲労がきついですね。机の引き出しに目薬があったはず… ん? これは?
引き出しには、小さな一口チョコレートが4つ。入れた覚えもどころか、買った覚えも無いのですが?
1つを手に取ってひっくり返してみると、ビニールの茶色い包みにピンクの油性ペンで、小さな小さな『桃の花』が描かれています。… ああ、なるほど。
「入試~… もう、そんな時期なんだな。会場手伝いは毎年、生徒会がやってんじゃん」
「その生徒会メンバーの多数が、ご家庭の都合や塾などで都合がつかないそうですよ」
梅吉が何やらごちゃごちゃ言っていますが、俺はチョコレートを1つ食べて、やる気の充電です。
今日の仕事は、始まったばかりですからね。うん、甘い。
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1時間目はパソコン作業、2~3時間目は補習、4時間目は特別講習と、午前中の授業を終えて職員室に戻って気が付きました。
「しまった… 弁当を忘れました」
何たる不覚。最近の唯一の楽しみが…。いつもなら、朝食と一緒に弁当も受け取っていたのに。確か、今朝は三鷹が受け取っていたはずですが…
「あ、俺も忘れてる。桃華、持って来てくれてないかな? なぁ、LINEで聞いていいと思う? 三鷹の部屋に弁当忘れていたら、アウトだよな?」
スマートフォン片手に、そんな情けない顔をしないでくださいよ。
空腹感が増長します。
「梅吉、笠原、生徒が呼んでいる。教室に来てくれと」
桃華にLINEをするべきか悩んでいる俺と梅吉に、補習授業から戻って来た三鷹が声をかけてきました。
「生徒? うちのクラスの誰か?」
「クラス全員」
梅吉が聞くと、三鷹は教科書類を机に置いて、顎で俺と梅吉を促しますが、その所作が柄の悪さを増長させているんですよ、三鷹。
「クラス全員? 今日は登校日じゃないよな?」
「とりあえず、桃華も居るでしょうから、行きますか」
三鷹に聞いたところで、何も知らないでしょう。弁当の事は後にして、とりあえず三人で教室に向かいますか。