■その289 3年B組・今年のバレンタイン■
階段を昇って、教室が見える距離になると、何やら騒がしい。今年に入って、聞かなくなったその賑わいの声は、どこか懐かしさを感じますね。自由登校になって、まだ1カ月ほどだと言うのに。それに、何やらカレーの香りが漂っていますよ。
「来た来た…」
「ちょっ、押すなって」
「早く早く」
… うちのクラスの生徒は、何を企んでいるのですかねぇ。
教室のドアの影から俺達の姿を確認すると、教室の賑わいが静寂に変わりましたけれど、クスクス声が漏れていますよ。
「はいはいはい、遅くなりました」
いつもの様に教室のドアを開けると…
「ハッピー・バレンタイン!!」
生徒達の明るい笑顔と、元気な声。派手に、鳴り響く幾つものクラッカー。黒板には大きく『happy Valentine』のデザイン文字。教室の中央には机が集められ、その上に沢山のチョコレート菓子や何種類ものケーキ。
それと、カレーの鍋と炊飯器。
「凄いなぁ~」
「でしょでしょ、皆で用意したんだよ」
「B組ラストのイベント~」
「先生たちも、これならチョコ、受け取ってくれるでしょ?」
「先生、俺達男子からのもあるからな」
「梅ちゃん、このトリュフチョコレート、私が作ったんだから」
「これ、私が作ったクッキーね」
梅吉は早々に女子に囲まれて、渡された紙皿はすぐにチョコレートのお菓子で山盛りに。
「カレーは、ちゃんと許可を貰って、家庭科実習室をお借りしました。学年主任の高浜先生のね。イベントは長くて1時間。ランチタイムよ、ランチタイム。ちゃんとお掃除もしますし、該当者は午後の特別講習にも遅れず出席します」
俺が口を開くより早く、
「息抜きも、大切でしょう?」
桃華はその紙皿を軽く俺に押し付けて、ウインク。
その表情は、反則ですよ。色々と、禁欲生活の真っただ中なのですから。おかげで、元素周期表で煩悩を消し去ることも、慣れたものですけれどね。
「考えたら、クラスの皆がそろうのって、卒業式だけなんですよね」
白川は、チョコレート菓子より、カレーですか。
「佐伯君が、去年の様に皆にチョコレート菓子を配りたかったそうです。
けれど、受験勉強で用意は出来ないし、皆は学校に来ない」
まぁ、今の彼に、そんな余裕はありませんからね。勉強を教えている田中さんも、忙しいですものね。田中さんは、ケーキ中心のようですね。
「でもさ、せっかくのバレンタインじゃない?ほとんど、進路も決定したしさ~。うちのクラス、仲良しだし~。それに、佐伯っチみたいにバレンタイン渡したい人、他にもいるだろうし、あげたとしてもよ? ホワイトデーは卒業後じゃない」
大森さん、今日は坂本さんのお店、遅刻で良いんですか? クッキーにカップケーキ、ロリポップチョコ、ケーキ… 大森さんのお皿は、随分賑やかですね。
「な、なので、学級委員長が、み、皆に声をかけてくれました」
そう言いながら松橋さんが見せてくれたスマートフォンのグループLINEは、女子だけじゃなく男子の書き込みも楽しそうですね。
「東条さーん」
「そう言うわけだから、先生、楽しんでね。あ、これは、提出物です。落とさないでくださいね」
女子に呼ばれた桃華は、俺の胸元に桃色のクリアーファイルを押し付けて、声の方へと向かって行きます。勢いで、確りと受け取りましたけれど、提出するようなプリント、ありましたか?
「返却は受け付けません」
その足がピタッと止まって、こっちを少しだけ振り返って笑った顔は、ちょっと悪戯っぽく年相応。 … だから、その表情は反則ですよ。もう少しその表情を見ていたいと思っているのに、すぐに前を向いて友達の輪の中に入って行きました。
「ヨッシー(義人先生)、これ、私から~」
「私はこれね」
「ヨッシー、カレーも食べてね。カレーの隠し味に、チョコつかったのよ」
「ヨッシー、久しぶりに見たら痩せてるんだもん。たくさん食べてよー」
桃華が俺から放れると、女子が代わる代わる紙皿にチョコレート菓子を乗せていきます。確かに、これなら貰っても問題は無いですね。しかし… 体重が戻る前に、鼻血が出そうな量です。
「意外と、甘さ控えめですね」
有難くお菓子を食べながら、クラスの様子を窺うと、この2年間の思い出話が8割といったところでしょう。あとは現状報告と、4月からの新生活の話題…
それにしても、本当にこのクラスは仲が良いですね。留年して1年間だけ一緒の近藤も、転校してきて超が付く問題児の佐伯も… 他にも問題児とレッテルを貼られた子は何人かいますが、まぁ、佐伯程ではなかったわけですが、皆、楽しそうに、良い顔をしていますね。
「教師冥利に尽きるな」
梅吉、それは同意します。
「ストレス解消に、一番効果がありますね」
カカオポリフェノールと、カフェインも、手伝ってくれていますね。
「そう言えば桃華、なに渡してきたのさ?」
梅吉と俺の紙皿には、次々とチョコレート菓子が置かれていきます。三鷹は男子に囲まれたまま。ちょいちょい、女子がその輪に入っていきます。そんな状況を、白川はあまり気にしていないようですね。白川は白川で、桃華や友達と楽しんでいますね。
「さぁ? 提出物としか…」
梅吉に紙皿を渡して、受け取ったクリアーファイルを少しだけ開いて覗いてみても、内側に折られていて良く見えませんね。内側に折られた端を少し捲ると、桃色の枠と『婚』の文字が見えてきて…
「確かに、これは返却できませんし、する気もありませんね」
予想が付きました。
これ以上は、梅吉が騒ぎ出すか卒倒するかのどちらかなので、1人の時間にきちんと確認することにして、今は生徒との貴重なこの時間を楽しみましょう。