■ その320 『一番に…』■
お風呂で火照った体が落ち着いた頃、主はお部屋でゆっくりとホットミルクを飲みながら、スマートホンのLINEを見ていました。お友達からの『お誕生日おめでとう』LINEにサクサク返信しながら、チラッと壁時計を見ます。時間は23時も半を少し過ぎたぐらいで、毛足の長い絨毯にペタンと座って、背中をベッドに預けている主は、少し眠そうです。
ローテーブルにはホットミルクの他に、缶入りのキャンディが置いてあります。それは、この前のデートで
「起きているか?」
お部屋のドアが静かにノックされて、三鷹さんの声が聞こえました。
「半分だけ」
主が返事をすると、珈琲を片手にジャージ姿の三鷹さんがお部屋に入ってきました。
「今日はすまなかった」
「お仕事ですもん」
三鷹さん、口では謝っていますけれど、その態度は謝っていないですよね?
珈琲をローテーブルに置いたと思ったら、主の太ももを枕にカーペットにゴロンと寝転びました。主のお顔を見上げないで、横向きな所が反省している態度でしょうか?
「買い物、怪我しなかったか?」
ナンパされた時の事を言っているんですね。
「うん、大丈夫」
三鷹さんはそっと主の腰に両腕を回します。主は三鷹さんにホットミルクを零さない様にと、カップをローテーブルに置きました。
「… いい買い物、できたか?」
きっと、言いたい事あったんでしょうね。それをゴックンって飲み込んで、何とか消化しての言葉なんですよね。
「一緒に、行きたかった。夕方にも、間に合わなかった」
いじけた子どもみたいに、三鷹さんはお顔を主の太ももに埋めました。主は少しドキッとします。けれど、三鷹さんの声を聞いて、ちょっと笑っちゃいました。すっかり、拗ねた声です。お仕事が次から次に増えて、夕方のお出かけも行けなかったんですよね。
「今度の日曜日、行こう? お誕生日のプレゼントに、スーツ買ってくれるんでしょ? 私、楽しみにしてるんだよ」
主はそんな三鷹さんの頭を、ヨシヨシと撫でます。それは、拗ねたりいじけた双子君達にやってあげていた事と、まったく同じでした。でも、やってあげていたのは小学校に上がるまででした。三鷹さん、大きな子どもですね。
そんな大きな子どもの体はお風呂上がりで少し火照っていて、黒くて硬めの短髪は半渇きです。
「今日、買ってやりたかった」
「お仕事、大切でしょう?」
三鷹さん、完全にいじけてますね。
「今日が、
三鷹さんのこだわりは、そこなんですね。主のお誕生日にデートして、プレゼントを買ってあげたかったんですね。
「私は嬉しかったな。三鷹さんと相々傘出来たから。そう言えば、最初に出してくれた黄色い傘、どうしたの? 見覚えがあるような、無いような…」
三鷹さんは主の腰に回した腕に、ギュギュっと力を込めます。
「俺の、初めての宝物だ。あの傘のおかげで、家に帰れることが出来た」
「三鷹さん、迷子だったの? カエルちゃんのご利益だね」
そっか… と言って、主はヨシヨシと三鷹さんの頭を撫で続けています。三鷹さんは、自分の頭を撫でてくれる小さな手の感触に、しばらく集中していました。
何も話さず、少しも動かない三鷹さん。お顔が見えないから眠っているのかどうかも分からなくて、とりあえず風邪をひかない様にと、主は後ろのベッドから掛け布団を引っ張り下ろそうと上半身を軽くひねりました。
「この部屋にあるカエルの物を、全部俺の部屋に移していいか?」
不意に言われて、主は上半身をひねったままの状態で、キョロキョロと周りを見ました。
「… 三鷹さんのお部屋に、私の物を?」
主、それって…
三鷹さんはぐっとお顔を上げて、主を見ます。主も思わず三鷹さんを見つめました。
「毎朝、一番に『おはよう』を言ってくれ。俺の家の玄関で『行ってらっしゃい』と『お帰りなさい』を言ってくれ。… 俺はこれからずっと、桜雨の誕生日に、一番に『おめでとう』を言いたい」
「それ、今日のお弁当に入れたお手紙のお返事?」
主の腰に回されていた腕がスルスルと上に上がって行って、主の小さな両肩をしっかりと抱きしめ、三鷹さんの厚い胸元が主の目の前にありました。
「そうだ」
短く答えて、三鷹さんは主の肩越しに頭を落として、グリグリと左右に振ります。お母さんに、ヤダヤダしている子どもみたい…
今日、主がお弁当と一緒に入れたお手紙は短い文面で…
『鍵は、もう使ってもいいですか?』
と、桜色の便せんに書いたんです。
「笠原先生がね、私を入れる準備があるだろうから、家に入る前にお伺いを立てなさい。って、教えてくれたの。大掃除、しなきゃいけないだろうから、って」
三鷹さんのお部屋、どんな風になっているんですか?主が見ちゃいけないモノでも、飾ってあるんですか?
「… 明後日以降なら、鍵を使って構わない」
あるんですね、主に秘密の物。主はクスクス笑いながら、頷きます。
「今年の誕生日ケーキは、
いつもお誕生日のお祝いは、
「ケーキ、作れるようになったんだなぁ… 好きな子が出来る年頃になったんだなぁ… もう、小さくないんだなぁ… って、嬉しいのか寂しいのかハッキリしないんだけれど、今日一日で2人の成長をすごく感じちゃった。だから…」
主は三鷹さんの背中に、そっと手を回します。大きな背中はジャージ越しでも、筋肉の硬さとその熱がしっかりと分かります。
「これからは三鷹さんに、一番に『おはよう』って言いたいな」
恥ずかしそうな主の声は小さくて、でも、三鷹さんの耳には確り聞こえていて… 主も三鷹さんも、何も言わずにお互いを抱きしめる腕に力を込めました。
「桜雨、お誕生日おめでとう」
3月8日午後11時59分… 日付が変わる直前。三鷹さんは抱きしめた腕の力を緩めて、主のお顔を確りと見つめて言いました。
「ありがとう、三鷹さん。… これ、一緒にいかが?」
主は軽く下がった目尻を更に下げて、微笑みます。そして、ローテーブルに置いておいた缶を手に取って、お顔の横で小さく振ります。
「食べさせてくれるか? こないだの様に」
三鷹さんは少し意地悪く微笑んで、自分の唇を人差し指でトントンとします。
「… 甘くなりすぎても、我慢してね」
主は恥ずかしそうにほっぺを赤く染めて、缶の口を開けました。