■その326 卒業したから… 『私だけの特別』■
3月3日は
双子の様に育った私達のお誕生日プレゼントは、ほとんどお揃いの物。ノートや鉛筆といった文房具や、マグカップやお茶碗なんかの食器類、下着や洋服、バックにクツ、もちろんアクセサリーも。それが嫌とかじゃなくて、お揃いは嬉しかったし、お互いに贈りあったプレゼントもお揃いの物が多い。けれど、1人だけ、昔からお誕生日のプレゼントは『私だけの特別』をプレゼントしてくれる人がいた。お父さんや梅吉兄さんは、今でも買ってくれるものは必ずお揃いの物だけれど。
■
4月1日の朝、6時。いつもの様に朝の準備を終わらせてから家を出て、向かいのアパートの階段下で私の足が止まっちゃった。心臓が、ドキドキしているから。
今、持っているのは数人分の朝食じゃなくて、キーケース。薄茶色の本革で作られていて、端っこに座ったカエルの形が切り抜かれている。キーフックは3本あって、真ん中に金色の鍵。これは、桃華ちゃんが貰っていない、数少ない私にだけの誕生日プレゼント。
「カエルちゃん、今日からここが貴方の場所ね」
キーフックの一番端に、大きめのキーホルダーを付ける。心臓のドキドキが伝わって、指先が少し震えてる。形も色も可愛くないけれど、大切な大切な私のお守りの『カエルちゃん』。色褪せて今にも剥がれそうなカエルのシールが付いた、折り畳み傘の持ち手のキーホルダー。
「どんな形になっても、いつまでも私の側に居てね」
キュッと両手でキーケースごとカエルちゃんを抱きしめて、心臓のドキドキを落ち着かせようとするけれど、逆に酷くなっちゃったみたい。
ドキドキしたまま、アパートの階段を昇ります。最初はゆっくりだったのだけれど、ドキドキのリズムに合わせてトントントントン… って足も早くなって、階段を昇りきってそのまま端っこのドアまで。いつもなら、このドアは内側からしか開かなくて、そのために呼び鈴を押すんだけれど…
「もう、卒業したもの…」
カエルちゃんに話しかけながら、金色の鍵を鍵穴に… 入れようとしたけれど、胸のドキドキが邪魔をする。
この部屋に入るのは、高校を卒業してからという約束。私が高校生だったのは、3月31日の昨日まで。
「私だって、いっぱい我慢したんだもん…」
大きく息を吸って… 長く吐いて… 一瞬止めて。鍵穴に鍵を差し込んでそっと回すと、小さな小さな音がした。その音は、私にとって特別な音。そっとドアを開けようとして…
「フフフ… 」
去年のクリスマスを思い出しちゃった。一昨年のサンタさんのマネをしたくて、玄関のドアだけ開けたんだよね。下駄箱の上にプレゼントを置くだけのつもりだったから、ドキドキはしたけれどこんなにじゃなかったな。あの時のドキドキは、見つかっちゃうかも… っていうドキドキだったし。
音を立てないようにドアを開けると、薄暗い玄関に細い光の道が出来て、それが吸い込まれるように奥へと伸びていく。一歩入って横を向くと、下駄箱の上にクロバーを持ったカエルの一輪挿し。
いつもの私はここまで。
「お邪魔します…」
今日は初めて靴を脱いで、
「… 秋君、おはよう。三鷹さん、まだ寝ているでしょう?」
リビングの手前まで行くと、どこからか秋君がお出迎えに来てくれたけれど、あまりに静かに出て来るから、ドキドキしていた心臓が一瞬止まるかと思っちゃった。おかげで、心臓はいつものリズムに戻ったみたい。
私の周りをクルクル回りながら尻尾をブンブン振ってくれるのはいつもの事だけど、ワンワン吠えないのは三鷹さんが寝ているからなのよね。最近は、私のお家にお泊りする時も、そうだもの。
「ちょっと、待っててね」
足元を絡まるようについてくる秋君を踏まない様に気を付けて、リビングに入って真っ先にカーテンを開ける。このお部屋の窓は大きいみたいで、カーテンを開けたらリビングだけじゃなくて、カウンターキッチンまで一気に明るくなって、すっごくいい気持ち。
… あんまり、ジロジロお家の中を見ちゃ、失礼よね。興味はあるけれど。
「わん」
「お水、入れてあげるね」
物凄く控えめな秋君の声に、キョロキョロしそうだった頭が、キッチンの方に向いた。
秋君は、目が覚めたらお水を飲むのよね。そのお水入れは、キッチンに入った所。これも、私のお家と一緒。
お水入れを綺麗に洗って、新しいお水を入れてあげると、すっごい勢いで呑み始めたから、結構喉が渇いてたのかな?
「珈琲を煎れるぐらいは、いいよね?」
カウンターの隅に、挽かれた珈琲豆の袋と、カップ、珈琲メーカーのセットを見つけて、勝手にいじるのもどうかと思ったけれど…。
珈琲が入るまで、キッチンの中からリビングを見渡してみた。男の人の独り暮らしなのに、綺麗に片付いているし、物も少ないなぁ… お仕事が忙しい時は、ここに
珈琲メーカーが音を立て始めると、苦みを帯びた香りがお部屋の中に広がり始めた。微かに香る三鷹さんの匂いが珈琲の香りに変わっちゃって、ちょっと残念。
「秋君、朝ごはんの前に、ご主人様を起こしに行こうか?」
珈琲が出来上がる前に、お水を飲んで満足していた秋君を誘って、リビングの隣にあるドアの前に立つ。… 立ったんだけれど、ドアノブを前にして、また心臓がドキドキし始めちゃった。
三鷹さんの寝顔、何回も見ているじゃない。何回も、起こしているし… でもそれは、私のお家でのことで、他に笠原先生や佐伯君が傍に居たり居なかったり… 今朝は三鷹さんのお部屋で、私と三鷹さんだけ。
「わん」
「秋君もだね」
足元からした声に、ちょっとだけドキドキが収まった。本当に、ちょっとだけ。
「『おはよう』のキスぐらい、良いよね?」
初めてこのお部屋に入ったら、やってみたかった事。やってみたいから、こんなにドキドキしてるんだよね。上手に出来るかな?
「三鷹さん…、 入りますね」
軽くノックをして… 少し待っても返事がないけれど、入っちゃっても大丈夫かな?
「わん」
戸惑っている私の代わりに、秋君が前足でドアを押し開けて、入って行っちゃった。そっか! 秋君の為に、ドアは完全に閉めてないんだ。
そっと中を覗くと、窓を頭の上にして、壁際に置かれた大きめなベッドの上に、体を横向きにしてこっちに顔を向けて寝ている、見慣れた寝顔。秋君はお布団の上に飛び乗って、足元で丸くなっちゃった。
「… 失礼します」
音を立てない様に、ソロソロとお部屋の中に入って、少しだけカーテンを開けて見る。ベッド横のナイトテーブルの上に、私の写真が飾ってあった。
ランドセルを背負った、小学校時代のは3年生ぐらい? 白いセーラー服姿の一枚は、中学生。もう一枚は、この髪の長さだと最近かな? やだ、去年の水着姿の写真もある。
「もう、三鷹さんたら」
カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しいみたいで、眉間に深い皺を作っている三鷹さんのホッペを、座り込んでそっと撫でてみる。本当は、突っつきたかったんだけれど、お父さんとやりあった時に出来た痣が、まだ残っているんだもの。でも、これだったら入学式には綺麗に治っているかな?
ベッドの縁に横向きに顔を乗せて、ジッと三鷹さんの寝顔を見る。薄いけれど少し伸びたお髭が、窓から差し込んでいるお日様の光でキラキラしているのが好き。軽く開いている唇にいつもドキドキしていたけれど、キスをしちゃった今はもっとドキドキしちゃってる。
「ドキドキするけれど、いっぱいキスしたい」
もう、我慢しなくていいんだけれど、今朝はこれだけね。
「起きて、三鷹さん。朝ですよ」
ホッペにチュッてキスをすると、少し伸びたお髭が、唇にチクチクして少しくすぐったい。それが、何だかとっても嬉しくて、『私だけの特別』って感じで、今とっても幸せな気持ち。