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第327話 春休みの美術室

■その327 春休みの美術室■


 職員室の入っている校舎の4階。左半分を閉める美術室の一番奥、窓際の席が、僕の主の桜雨おうめちゃんの一番お気に入りの場所です。

 窓に向かってイーゼルとキャンパスをセットして、時間も人の目も何も気にすることなく気持ちのままに描くのが主流。でも、今日はイーゼルとキャンパスをセットしたまま、美術室の大掃除です。制服でも、学校指定のジャージでもなく、白のロングTシャツにデニムのサロペット姿。薄く入れた紅茶色の長い猫っ毛は、三つ編みのお団子に纏められています。

 開け放たれた窓や廊下側のドアからは、4月のまだ少し冷たさを含む風と共に、合唱部の練習する歌声と、吹奏楽部の楽器の音が入ってきます。曲名から察するに、入学式と新入生オリエンテーションに向けて、最後の調整の様ですね。


 教室の前方、窓の下に細長く作られた流しを磨きながら、主は流れ込んでくるメロディーに合わせて楽しそうに、校歌を口ずさみます。だけど、桃華ももかちゃんの歌声が聞こえなくて、少し寂しくも思いながら… いつも通り、ちょっと調子がズレてますけれど。


「白川先輩!」


「え?! 先輩来てくれたの?」


「どこどこ?」


 画材を抱えて、美術部の後輩さん達が入ってきました。春休みを利用して、美術部の画材の買い出しの様ですね。主の姿を見て、後輩さん達は嬉しそうに画材を抱えたまま駆け寄ってきます。


「先輩、今日は描かないんですか?」


「たまには、来てくれますよね?」


「お仕事、まだ始まらないんですか?」


 流しを背に、後輩さん達に囲まれた主はニコニコしながら手を洗うと、横からサッ! とハンカチが差し出されました。


「ありがとう。今日は美術室の掃除に来たんだよ~。3年間お世話になったし、これからもお世話になるから。芳賀先生が、ここで描いて良いよって言ってくれたからね。だから、イーゼルもキャンパスも、あのままにしておいてくれると嬉しいかな。お仕事はね、来週からかな?」


 主は差し出されたハンカチで手を拭きながら、後輩さん達の質問に答えます。


「良かった~。中等部の美術部から、先輩にあこがれて入ってくる子もいるんです」


「ここで描いた絵、コンテストに出します?」


 喜んでお話ししていますけれど、画材、重くないんですかね? 置けばいいのに…


「コンテスト、出そうと思ってるよ。そのために、ここで描かせてもらえるんだもん」


 主はそっと横を向きます。視線の先には、所定の位置にセットされたイーゼルとキャンパス。


「今日の先輩、なんだか新鮮… 哀愁? 先輩、デッサンモデルやってくれませんか?」


「制服姿も素敵だけれど、サロペットも似合う~」


「私も、先輩のデッサンしたい!」


「先輩、掃除は私達がちゃんとやりますから、デッサンさせてください!」


「先輩、こっちこっち」


 主の横顔に哀愁を感じた後輩さんが、デッサンモデルを頼んできました。

ちょっとビックリした主が返事に困っていると、後輩さん達は近くの机に画材を置いて、主の手を取りました。戸惑う主を、後輩さん達はいつもの席に座らせます。


 美術室の一番奥、窓際の席。窓に向かってイーゼルとキャンパスがセットしてある、目の前の椅子。


「私、今は描けないよ?」


 椅子に座って、ちょっと困って後輩さん達に言います。


「先輩、描けない時はキャンパスと睨めっこしてるじゃないですか。今日も、睨めっこでいいですよ」


「そうそう。私達が、先輩を、デッサンするんですもん」


「デッサンなんですから、動かれちゃ困っちゃいます」


 後輩さん達は口々に言いながら、デッサン道具と椅子を用意しました。


「… はいはい。モデルをやるのは初めてだから、少し動く位は許してね」


 主は観念したように笑って、改めてキャンパスに向かいました。


 話し声が消えました。流れ込んできていた合唱部の歌声や、吹奏楽部の楽器の音はいつの間にか止まっていて、美術室に響く音は、スケッチブックを擦る鉛筆の音だけでした。聞きなれたその音に、主の心はさらにキャンパスに集中します。長方形の白い世界を見つめる主の顔を見て、後輩さん達の手が止りました。


「先輩、凄い綺麗…」


 溜息と一緒に、後輩さん達は呟きを漏らします。


 窓から差し込む太陽の光が、主の薄く入れた紅茶色の髪を金色に輝かせて、剥き出しのうなじの白さを際立たせます。集中してキャンパスを見つめる目は軽く瞼が下がって、長い睫毛が影を作ります。組んだ足に左肘を乗せて、軽く曲げた人差し指を小さな唇の下に添えて… お顔に添えられた左手の下の方、軽く曲げた薬指の付け根に、緑のガラスのリング。物憂げな表情とは違うけれど、いつもの主からは想像できないその表情は、少し大人っぽく見えます。


 描いては見とれて、見とれては描いて… そんな後輩さん達の少し後ろに、いつ来たのか、スマートフォンを片手に立っている三鷹みたかさんが居ました。スマートフォンのシャッター音に気付かないぐらい、主も後輩さん達も集中しています。それを良い事に、三鷹さんは動画を撮り出しました。


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