■おまけの話12 勇一と美世4・チョコレートと珈琲1■
私が小学校2年生の冬、高校2年生の勇一さんは、大学受験のために勉強に本腰を入れ始めた頃だった。
受験校は日本トップのT国立大学。この当時は、一浪や二浪して当たり前の合格率で、中には30歳を過ぎてから合格した人も居るらしい。そんな大学の経済学部を、勇一さんは第一希望にしていた。といっても、受験するのはここだけ。
東条家の長男、跡取りとして一発合格するのは当たり前と、周りからのプレッシャーは相当なものだったと思う。毎日、夜遅くまで勉強に勤しんでいたのを覚えている。
その頃の私は、そんな勇一さんの受けているプレッシャーなんて少しも分からずに、お屋敷のお仕事と学校と、修二さんのお相手に相変わらずバタバタした毎日を送っていた。変わった事と言えば、11月の終わりにマリさんが入って来たこと。
「ミヨちゃん、ここら辺はクリスマスに遊べるところなんてあるのかな?」
マリさんは、奥様の親戚らしい。家柄は良いらしいが、素行に問題があったようで、行儀見習いの上女中ではなく下働きの下女中として入って来た。
ようは「根性を叩きなおす」のが目的だったらしいけれど、この時の私は知るはずもない。
この日も、お夕飯で使った食器を、流しでマリさんと並んで洗っていた。マリさんは、お豆を摘まみ食いしながら。蛇口の横に豆皿に入れて置かれた煎り豆は、白いお砂糖でコーティングされた物で、美味しそうだった。けれど今は仕事中だし、何よりマリさんのお菓子だからと、見ない様にしていた。
「マリさん、食べながらはお行儀悪いわ」
そんな私とマリさんの後ろを、洗い終わったお皿を抱えてサヨさんが通った。素早くその豆皿からヒョイと一粒つまんで、パクッと口の中にほおり込んだ。
「ちょっと! この豆菓子、私が自分で買った物なんだから、勝手に食べないで!!」
いつものゆっくりした動きは演技なのかな? と思える位、マリさんの反応は早かった。泡だらけのスポンジを握りしめて、勢いよく振り返る。
豆菓子はお皿に山盛りあるのに、そんなに怒るんだ…
と、私はビックリした。つまみ食いしたサヨさんもビックリ。
「ごめんなさいね~」
軽く謝ったサヨさんが食器棚の方に行ってしまうと、マリさんは舌打ちをして食器洗いを再開した。
「まったく、人様のお皿に勝手に手を出すなんて、どんな教育をされたのかしら?」
ブツブツ言いながら食器を洗い、手に着いた泡を払い飛ばして目の前の豆菓子を摘まむマリさん。私は、幼心に「関わっちゃいけない人だ」と、直感した。
「でね、クリスマスなんだけれど、ここら辺で遊べる所ってどこかしら?」
話が戻った。
「クリスマス? お仕事ですよ」
「はぁ?!」
私の返答に、マリさんの口から怒ったような、呆れたような変な声が出た。
「クリスマスも年末もお正月も、お客様が沢山お見えになるので、大忙しですよ。
去年の私は冬休み中、朝から夜までほとんど
もう少しすると、お屋敷にはお仕事関係のお客様がひっきりなしに訪ねて来られる。旦那様のお客様だったり、奥様のお客様だったり、たまに勇一さんのお客様も。事前のお約束がなく、別室でお待ちいただいたりする方も少なくなかった。さすがに、お正月の三が日のお客様は親戚の方々たったけれど、私の仕事は変わらず竈でご飯を炊くことだった。
ほぼ、丸一日。夜には足腰は固まって、顔や手は煤だらけだった。
「なにそれ? そんな事、聞いてないわよ!!」
「私に言われても…」
泡のついたスポンジを握りつぶして、怒鳴るマリさん。この時の私でも「この人は、何しにお屋敷に来たのだろう…」と思った。
「貴女は、お客様ではありませんよ。お屋敷の下働きをするために、女中としてお屋敷に入ったのでしょう」
そんな時、後ろから静かだけれど圧のある声がマリさんを窘めた。振り返ると、奥様が呆れた顔で立っていた。
「でも、奥様…」
「でも、ではありません」
マリさんが、奥様に食ってかかる。口の端に泡を溜めて、縦にも横にも大きな体を揺らしながら。
「ミヨちゃん」
その勢いに呆然としていた私の手を、サヨさんがチョンチョンと引いてくれた。コソっと名前を呼んで。
「これ、勇一様のお部屋に持って行ってくれる?」
キッチンの入り口まで引っ張られて行くと、ナツさんがお盆を持って立っていた。お盆の上には、丸みを帯びた白いマグカップと個包装のチョコレートが2つ。マグカップからは白い湯気が立っていて、ほんのりと苦い香りがした。
「持って行ってくれた後は、お風呂入って寝ちゃっていいわよ。明日も学校でしょう?」
ナツさんからお盆を受けとった私に、奥様とマリさんの口論に遠慮するかのように、サヨさんが耳打ちしてくれた。
「でも、竈のお掃除が…」
「灰の始末は、武さんにお願いしておくから。今夜は、ここに戻ってこない方がいいわ。私達も、パパっと片付けて、お風呂はいっちゃうから」
サヨさんは戸惑う私の肩をそっと押して、キッチンから出してくれた。背中でマリさんの金切り声を聞きながら、勇一さんの部屋に向かった。