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勇一と美世4・チョコレートと珈琲2

■ おまけの話13 勇一と美世4・チョコレートと珈琲2■


 勇一さんのお部屋は、お屋敷の東側の2階。廊下の電気はついているけれど、窓から入る夜闇が独特の静けさを作り出している。


 丁度この日、学校の授業として図書室で本を読んだ。私が選んだのは、低学年向けの短いお話しが纏まった本で、最初に幽霊のお話しが載っていた。

 家の廊下に怖いお化けが出て、どこまでも追いかけてくるお話し。丁寧なイラスト付きで、この廊下に雰囲気が似ていて… 思い出したお話を頭を振って追い出そうとしたけれど、いつもは何とも思わない廊下が少しだけ怖かった。


「お仕事お仕事」


 そんな気持ちを、両手に持ったお盆を見て一生懸命切り替える。この先は、私にとって難所だったから。少し急な階段を、長いスカートでお盆を持って上がるのはちょっと不得意で、たっぷり入ったマグカップの中身を零さない様に注意しながら、手すりを頼りにソロソロと上がって行く。スカートの裾を踏まずに上り切って、ホッとしながら廊下の一番奥まで進む。


「勇一様、ミヨです。お飲み物お持ちしました」


 お勉強中のはずだからと、ノックと声は小さく。


「開けま~す」


 返事が帰って来ないのはいつもの事なので、少し待ってから静かにドアを開けた。大きな背中が見えた。窓際の机に座って、黙々と勉強をしている勇一さん。聞こえる音は、紙をめくる音とペンの走る音だけ。


「勇一様、ここに置いておきますね」


 お盆をどこに置くのがいいのか少し悩んで、電気スタンドの下にマグカップと、個包装の小さなチョコレート2つを置いた。小声で一言残して、ススス… と下がってお盆を手にお辞儀をすると、


「ミヨ」


 勇一さんが手を止めて振り返った。その手には、チョコレートが1つ摘ままれていた。


「いいんですか?」


 ずいっと差し出された個包装のチョコレートを、お盆を小脇に抱えて両手で受け取る。チョコレートなんて滅多に食べられないから、その1個がキラキラ輝いて見えた。


「甘いから、1つで充分だ。この大きさは皆と分けられないから、ここで食べると良い」


 勇一さんは、私が個人的に貰ったお菓子を女中仲間や修二さんと分けて食べるのを知っていた。その事に、私は驚いた。驚きながらもその場に座って、お盆を落とすように床に置いて、チョコレートの包装を開けて匂いを嗅いだ。微かに香る甘い香りに誘われて、そっと袋から摘まみだして少しだけかじる。端っこの、ほんの少し。


「ウフフ」


 そんな少しでも、そのほろ苦くて甘い味は口の中に広がって、思わず顔がほころびて笑い声が漏れた。


「美味しいか?」


「はい、とて… も」


 聞かれて目線をあげると、勇一さんと目が合った。それは、今までに見たこともない程優しい瞳で、口元もほころんでいた。


「美味しいです」


 そんな勇一さんの表情に、ドキドキした。ドキドキしているのが勇一さんに分かってしまうんじゃないかと思って、思わず俯いてチョコレートをまた少し齧る。


「俺は、こっちの方がいい」


 盗み見るように、チラッと上目使いで勇一さんを見た。勇一さんは、マグカップの中身を飲んでいた。


 確か、珈琲という飲み物だったはず。


 私の実家ではもちろん、お屋敷のお客様にお出しするのも、ほとんどがお茶だった。たまに「珈琲」を飲まれるお客様には、タカさん達上女中が煎れていたから、私はその色と匂いしか分からなかった。


「珈琲ですか?」


「飲んだことは?」


 チョコレートを齧りながら、首を横に振った。


「少し、飲んでみるか?」


 きっと、気まぐれだったのだと思う。でも、私は新しい味に興味津々で、今度は縦に首を振った。


「飲んでごらん」


 そんな私に、勇一さんはマグカップを差し出してくれた。


「頂きます」


 左手に齧りかけのチョコレート、右手に珈琲のマグカップ。マグカップの縁に唇を付けると、熱さと同時に苦い香りが鼻をくすぐった。正直、その匂いで味を想像して、飲めないかもしれないと思った。けれど、新しい味には興味があったから、フーフーと少し冷ましてから静かにすすった。


「!!」


 口の中に広がった想像以上の苦さに、目を見開いていたと思う。マグカップを落とさなかった自分を褒めたいぐらい、その味はこの時の私にとって刺激的だった。


「チョコレートを食べるといい」


 勇一さんはそんな私を見て、声を殺して笑っていた。


 珍しい!


 いつもは頬を緩める程度だから、本当に珍しくてびっくりして、まじまじと勇一さんを見ていた。


「すまない、ミヨ。意地悪をするつもりではなかったんだ。ほら、これもあげよう」


 笑いながら、勇一さんは自分の分のチョコレートまでくれた。


「いえ、あまりの苦さに驚いただけです」


 せっかくなので、2個目のチョコレートも有難く頂く。マグカップと交換でチョコレートを貰うと、左手に持っていた方のチョコレートを口の中に入れた。半分程残っていたけれど、贅沢に、一気にほおり込んだ。

 今までで一番強い甘みとほろ苦さ、独特の香りが口の中に広がって、珈琲の苦みを消し去ってくれた。ホッとしたけれど、なぜかちょっと物足りなさを覚えた。


「美味しそうだな」


「はい、美味しいです。… 何となくなんですけれど、勇一様が珈琲を美味しいと言うのが、分かったかも? 何となくなんですけれど」


 珈琲の苦みと、チョコレートの甘味… このバランスを言葉にして伝えるのが難しかった。そもそも、自分の中でもハッキリしていなかったから、言葉にするのは無理だった。


「そうか。ミヨは少しだけ大人になったな」


 勇一さんに伝えようと言葉を探す顔は、変なものだったのだろう。勇一さんはニコニコ笑いながら、珈琲をゆっくりと飲んだ。そんな勇一さんに、私はまたドキドキしながら残りのチョコレートを大切に大切に食べて、勇一さんの部屋を後にした。


 サヨさんには、お風呂に入って寝ちゃっていいと言われたけれど、やっぱりかまどの掃除が気になってキッチンに向かった。けれど、キッチンの手前からマリさんの金切り声がまだ聞こえたので、サヨさんの言葉通りお風呂に入って寝ることにした。


 いつもより布団に入ったのが早いせいか、チョコレートと珈琲を口にしたせいか、勇一さんのあんな眼差しや笑顔を見たせいか、どれのせいか分からなかったけれど、なかなか寝付くことが出来なかった。

 布団の中でもドキドキしていて、歯磨きをしたはずの口の中は、甘くてほろ苦かった。



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