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第13話 思想

「貴方も検屍に心得が?」

「ええ、遥か昔に、少しだけ。だから、今回この試験に参加するのは、己の力量を確かめたいからという理由もあります。ま、こんなの、きっと楽勝ですけど」

見渡す限り女子で果てのない連なりにおもえた行列は、本物の屍体に恐れをなしたか逃げていく脱落者がやはり大勢で、話に花が咲くうちに先頭に辿り着いたところで翡翠から受験理由を語られた怜悧は、彼女が側近の座、地位や権力に本当に興味が無い事実と安堵はするものの自信に満ち溢れた言動を、こら、と、つい指摘した。

「初心忘るべからずよ」

注意の言葉が出て肘で翡翠の脇を小突いてから、怜悧は硬直した。しまった、幾らなんでも馴れ馴れし過ぎる。反射的に、あ、ごめん、と、謝罪が口から漏れ掛けたが翡翠がそれを制止するが如く、へらり、わらった。

「……はあい、師姐」

素直でありながら間延びした返事の仕方は小言に慣れた生意気な少年のようで、見目は可憐な少女の筈なのに、とても、このこらしい。怜悧は釣られてほほえみながらまた翡翠と戯れ合おうとしたところで、また悲鳴と共に扉から脱落者が逃げていく。

「次。招状を」

「わ、私? まだ全然、心の準備ができてないわ」

視線と声で急かされるまま、怜悧は門番に招状を渡す。確認されている間に、深呼吸した。翡翠との待機時間が楽しかったあまり、すぐ緊張感を取り戻すのは難しい。全然こころを切り替えられない。落ち着いて、鳥怜悧。私なら、できる。そうだ。前は、前世で、羽鳥恵理は、こういうときは、どうしていたかしら。未だに、本来のじぶんらしさすら、完璧に思いだせない。悔しい。

「ねえ、師姐。私の恩師は屍体にお喋りしちゃうような変わった御人でね」

「唐突な話題ね。どうしたの」

「よく、決め台詞を言って心を切り替えていましたよ」

「決め台詞……」

突然語り掛けられた翡翠の恩師とやらの情報におおきく首を傾げていたが、続いた言葉に瞠目した。決め台詞を言うなんて、何それ。そんな。そんなのって――

「恰好良いわね」

「……ふっ」

「ちょっと。何で笑うの?」

至極真面目に言うと翡翠が口許を袖で押さえ、小刻みに華奢なからだを揺すり、わらっていた。何処にそんなに可笑しい点があったのか。問い掛けたところで、突如、怜悧は前世を想起した。あ、と声を上げる。決め台詞。そう、以前は、検屍の度に屍体によく話し掛けていた。そしてお決まりの第一声があった。決め台詞にしている自覚こそ毛頭なかったが、あれで屍体と向き合う覚悟が決まり、心を切り替えられていた気がする。そういう、言葉がある。思いだしただけで、力を得た錯覚を抱く。今世の検屍はこれまで怒涛の連続だったから、すっかりそんなことも忘れていた。

「……そうだったわ」

門番から許可が下りた瞬間、拳を握った。捥ぎ取られた翼を返され、意欲が翔く。奮い起こされていく、本来のじぶんらしい感覚は気合いに変換される。

「ありがとう、楚翡翠! 行ってくるわね」

「ああ、はい。行ってらっしゃい」

溌剌として怜悧が言えば、翡翠は未だに笑いから起こるからだの震えを引き摺りながらも翠緑の衣の袖を振り、送り出してくれた。その手を振るすがたにさえ既視感を憶えるものの、小走りで門を潜った。


――


屋敷に踏み入った怜悧は先刻、唐突に走ったあまやかに甲走った黄色い声の原因を知った。真先に見覚えのある

鷹の如く鋭くも凛とした三白眼を視たからだ。宵鷹が、其処にいた。試験官を務める複数人の医官らに紛れて、座っている。視線が交錯したとき、宵鷹が急に立った。心做しか萎縮している隣の医官の肩が跳ね上がったが、一瞥もせずこちらだけを視たまま歩み寄ってくるので、慌てて咄嗟に拱手礼した。

「以前より顔色が良いな」

頭を垂れるより先に、ずい、と顔を覗き込まれ、怜悧は拱手を崩せないまま顎を引くなり一歩後退した。近い。そういえば鷹野もやたら距離が近いときがあったわね。そう宵鷹に前世の想いびとを重ねて視ながら、しかし、顔色の指摘への返答を口では優先した。

「百薬の長の効果かもしれませんね」

「酒を飲んだのか」

「はい。よい気付け薬にもなりました」

眸も口もぽかんと丸くしている宵鷹へ、微笑みかける。皇族との距離感を不審がる声や試験の前の飲酒を咎める医官の陰口が入り乱れ、怜悧がそちらを横目に視たのと同時に、宵鷹も察したのか、態とらしく大袈裟にひとつ咳払いした。一瞬にして波打っていた空気が整う。

「先日は君のお陰で助かった。感謝する」

「いえ、寧ろ元を辿れば我が鳥家の……」

改めて感謝を述べられると怜悧は首を振る。そもそも、犯人の行思の動機的に事件が起きた責任は鷺舞にあり、つまり鳥家の不徳の致すところだと、身内の恥を晒した謝罪を紡ぎ掛けるものの、話半ばで医官が口を挟む。

「試験を開始してもよろしいでしょうか?」

「あ、はい!」

失念していた。怜悧は、中央の筵の上に仰臥する屍体へ視線を移す。これ迄の参加者が逃げ出したのも頷ける、本物の屍体だ。死者は髪の長い若い女人で、お世辞にも上質とはいえない、質素な汚れた衣を纏っている。余り裕福な家庭ではないのだろう。着衣に、不自然な乱れは見受けられない。

「どう視る?」

「屍体は二十歳過ぎの女人。背丈は五尺三寸程」

医官に問われ、淡々と答えながら、怜悧は眸を凝らして外表観察に集中する。検屍の基本的手法は視診と触診。人間は、情報の八割を視覚から得る。視覚情報だけでも死者の生前の環境や死亡時期の推定に役立つが、当然、触診も重要だ。だが、やはり土壇場での急な検屍ならば兎も角、試験として冷静に検屍するのは、緊張が走る。喉が乾き、唾を呑み込んで深呼吸した。触診に入る前に切り替えないと――瞼を伏せたら、翡翠の言葉が眼裏の暗い闇を波打たせた。そう、決め台詞。言葉という形で覚悟を吐き出したら、躊躇いなく、臨みたい。検屍は、土足で死者に踏み込む行為ではない。そのひとの尊厳を重んじる、思想を知るものなのだから。

「――貴方のを、オモわせて」

じぶんのものとはおもえないくらい、強く澄んだ語気で言葉が溢れた途端、からだが勝手に動きだしているようだった。医官が怪訝な表情をして宵鷹が瞬いているが、他者の反応など気にしている暇もなく屍体の瞼を開き、角膜の混濁を確認する。顎、頚部、順に全身に触れたら硬直の消失を感じ、死後経過時間を推定した。

「死亡は三日程前」

「死因は?」

「ごめんなさい。失礼するわ」

透かさず医官に口を挟まれ、怜悧は死者の衣を脱がす。屍体に話し掛ける様を医官に如何にも奇怪で異質な者に出逢ったような視線が痛いが、検屍を続けた。屍体の、前腕の槙側には多数の古く小さい切創が規則的に並んでいる。これが他者に襲われて自らを守るべくできる創、所謂、防御創であれば、掌や上腕の外側、前腕の尺側に損傷がある筈なので、そうではない。

「これは、逡巡創……」

逡巡創とは躊躇い傷ともいい、手首や頚部に認められる複数平行に並ぶ、浅い切創である。すぐ手首を視たら、綺麗な深い創もあった。出血は少なく、乾燥しており、瘡蓋状に近い。逡巡創は自殺か他殺かを判断する上での重要な要素になり、この場合は手首の傷を致命傷として自殺と判定するのは、容易い。容易いが、怜悧としては違和感がある。腑に落ちない。

「どうした、死因がわからないか? そんなに解り易い手首の創があるのに。明らかに――」

「そうね。明らかに、他殺よ」

「なっ!?」

解答を煽動する医官の発言に反論する心算で、怜悧は、意図的に予想される言葉とは逆の言葉を被せた。死因を問い質していた医官だけではなく、傍観していた数人の医官も驚愕の声を上げている。誹笑さえ聞こえてくる。馬鹿にされているのは、明白だ。怜悧は、本当の主創、致命傷を触診で探っていく。見当はついており、死者の長い髪を、掻き分けた。

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