頭部を視たら、後頭を中心にして頭頂部にまでひろがる広範囲の皮下出血が認められた。明らかに外力が原因の青痣だ。逡巡創があると自殺が疑わしい手首や頸に創を致命傷として注目しがちだが、やはり、視診と触診は、隅から隅まで行うべきだ。特に女子の場合は、長い髪に頭部の損傷が隠されて見逃してしまう事例もあるので、毛髪を掻き分けて視たのは正しかった。死因は、頭部を殴打されたことによる脳内出血。これは、他殺だ。
「君は、何故そう思う?」
雑然たる批判の声の余響を引き裂き、問い掛けたのは、宵鷹だ。まるで、鴉を蹴散らす鷹の鳴き声。鋭い低音に威圧感を覚えたのか周囲の医官がまた萎縮していたが、尋問じみた言動だろうと理由を訊くのは当然の流れで、怜悧とて予想していた。宵鷹は、腕組みをしてこちらを見据え、眼差しを動かさなかった。怜悧は屍体の手首をひと差し指でさし、その視線を誘導する。
「手首の創が、綺麗過ぎるのです」
「どういうことだ」
「確かに、死者は自傷癖があったのでしょう。しかし、逡巡創があるほど日頃から死を躊躇する臆病な女子が、急に、こんなに綺麗に動脈を深く切れるでしょうか?」
「正気を失っていたなら、有り得るのでは?」
「自殺を否定する理由は、他にもあります」
違和感を語れば、やはり宵鷹は次々に問い掛けてくる。怜悧としては順を追った説明が容易くなり、助かった。指摘の通り、精神状態により希死念慮が高まり、平素は躊躇していた筈の自決を遂げたと考えるのは自然だが、怜悧は自殺の可能性を潰すように創口に覚えた幾つかの違和感を、諳んじるが如く淡々と語りはじめた。
「この創、生前のものにしては血が凝固していないし、出血自体少ないわ。炎症反応もない。それに、これ程の開放創なら、筋肉の収縮でもっと開いている筈」
損傷が生前に生じたのか、死後のものか。この鑑別は、いつ如何なる時も重要で、出血、炎症等が代表的である生活反応の有無が鍵になる。生活反応の中でも、出血は特に重視される。表皮剥脱周囲の出血、凝固反応。この屍体の創は、痂皮になっている。それに、生前に生じた切創は皮膚や筋の収縮で大きく開くとされているのに、開いていない。つまり――
「つまり、生きている間の創ではなく、死後に、誰かが故意に手首を切ったのでは? 自殺に見せ掛ける為に」
誰にも口出しを赦さない勢いで以て声高に言い切るや、怜悧は、屍体の頭部の損傷を覆う長い毛髪の束を引く。先刻とは違い、周囲に視認を強制する意図で毛を退け、頭部の青痣へ触れる。
「その証拠に、死者は此処に損傷があります。死因は、頭部を殴打されたことによる他殺かと」
「他に、わかることは?」
「防御創が無いから、無抵抗で襲われたのでしょうね。ということは、犯人は、警戒の必要が無い、親しい者。かといって、恋人と逢う装いにも視えないから、家族、或いは友人が怪しい……」
屍体の髪を緩やかに下ろし、一撫でする。宵鷹に向けて犯人像を絞りこむ結論を告げる後半、静寂と呼ぶべきか沈黙と呼ぶべきか、音が死んだ。先刻迄ひそひそとした医官の声が其処彼処からしていた筈が、誹笑も何もかも止んだのだ。怜悧はひやりとした気不味い悪寒を覚え、出過ぎた見解を述べ過ぎたか何らかの無礼を働いたか、気になり過ぎるあまり、不自然に言葉を途中で切る。
「ということ、くらい、です、けど」
何か、と酒が僅かに大きくした気で開き直って喧嘩腰に問い詰めたいほど空気が悪いが、医官、審査官と宵鷹を交互に視て様子を窺うにとどめ、取って付けた語尾を、苦わらい浮かべて加えた。もはや、片言に近い。もっと酒を飲んでいたら、危なかったかもしれない。だって、そんな、急にみんなして黙られたら恐ろしくもなるわ。どうしたのかしら。
「お見事だな」
無理矢理に持ち上げた口角が引き攣り掛けたところで、宵鷹が呟いた。途端に、其の場の者が総て立ち、屋敷が拍手喝采に揺れた。ぱちぱち疎らな拍手の嵐が鳴って、凄い、だの、本当に女子が検屍を、だの、医官が口々に感動を弾むこえにして囃し立てまくる。みんな、まるで今までとは別人だ。怜悧は動揺を抑えられないぷるぷる震えまくった指先を、医官達へ向ける。状況そのものを指差して問いたいのに、ゆびが足りない。
「殿下? これは、一体……」
「実は、一芝居打たせてもらっていた。連続死の件では先入観が徒となっていただろう? これは試験内容にも取り入れられるのではと、兄上が提案をしてな。死因が自殺だと、此の場の誰もが思いこんでいるように演じ、試していたんだ」
「では、つまり……」
「先程までの私や皆の振る舞いは、全て演技、偽装だ」
回答、宵鷹の冷静且つ円滑な説明に眩暈がした。本来は単純な偽装殺人なのに、他者が導く情報を鵜呑みにして鑑別を誤らないか、確認していたとは。検屍の難易度を死者ではなく生者が倍、二層にしていたのだ。専門的な訓練を受けた上で知識を養い、経験豊富な法医学者なら気付くが、着眼する屍体の情報が少なくなりがちな凡人であれば、間違いなく、確証バイアスに操られていた。
けれども、怜悧は、前世の知識と経験をもってしても、見破れなかった難題を再認識し、脱力した。すべて芝居ならば、他殺を指摘した瞬間のあの馬鹿にした態度も、居心地の悪い空気感も、何もかもが嘘なのに、すっかり騙されていた。
「私は、先日の連続死事件を解決した君ならば見破ると確信していたが、予想通りだな」
おめでとう、一次試験は合格だ。その為人を知らねば、真に祝福しているのか疑う低声が、試験突破を告げる。医官も曇りのない微笑で祝うなか、屍体の偽装は容易く見破れたのに生者の偽装は全く以て全然見破れなかった怜悧は感謝の言葉と共に拱手礼して受け入れながらも、前世から漠然と抱いている思想と恐怖が深まり、密かに遠い目をしていた。ほんとうに、これだから。やはり、生きている人間のことは、いつもわからない! そう、胸のうちだけで叫んだ。