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【六】第四皇子、白百合をこいねがう

6-1 意想外の呵責

「殿下……すこし、お休みになっては?」


 燎琉りょうりゅうの背中に、皓義こうぎが静かに、おずおずとした調子で、声をかけてくる。


「あまり無理をしては、今度は殿下のほうが身体を壊してしまいますよ」


 いかにもうれわしげな口調で言われたが、燎琉はそれに対して、うん、と、短く応じた。

 それでも結局は、寝台の傍を離れることができないでいる。


 あれから数日、この遣り取りとてももはやいったい幾度めになるものか、燎琉には記憶がなかった。


 我が殿舎で、椒桂しょうけい殿でん正堂おもやである。正房の隣の臥室にえられた牀榻しょうとうには、いま、瓔偲えいしが力なく横たわっていた。


 眠り続けるその頬は、まるでろうのように真っ白で、血の気がない。しゅう華柁かだが懸命の処置を施してくれた結果、瓔偲はまだかろうじて命脈を保っていた。が、その頼りない命の灯火ともしびは、いつ絶えてしまうとも知れない状態が続いている。


 心身が恢復かいふくして目を覚ますか、それともこのまま衰弱していって、やがて死の魔手に絡め捕られてしまうのか。あとはもはや瓔偲の生命力次第だ、と、周太医はそう言っていた。


 だからこそ、燎琉は瓔偲の傍を離れられずにいる。


 もしも自分が目を離したほんのわずかの間にも瓔偲が呼吸いきをするのをやめてしまったら、と、そう思うとたまらなく不安だった。あれ以来、片時も気を休めることができないまま、瓔偲のかたわらにずっと付き添い続けている。


「瓔偲……」


 燎琉は瓔偲のあおめた頬を指の先でそっと撫でた。


「はやく、起きてくれ……」


 たのむから、と、祈るように思う。


 話したいことがあるんだ、聞いてくれるといったろう、と、そうおもう。


「瓔偲」


 再び呼びながら、今度は己の顔をすこしだけ瓔偲に近付けた。そうすると、ふわり、と――かすかで頼りないけれども――たしかに百合の芳香かおりを嗅ぐ気がする。


 それなのに、瓔偲はまだ薄い瞼を閉じたままで、いっこうに動かなかった。


 もしかしたらこのまま二度と目覚めることなく、彼は儚くなってしまうのかもしれない。燎琉は顔をしかめた。


 そも、瓔偲は、皇家に伝わる即効性の毒をあおったのだ。本来ならばいま生きていること自体が奇跡のようなものだった――……それは、わかっている。それでもまだ、彼のいのちを諦められない。


 あきらめたくない、と、おもう――……どうしてもだ。


 燎琉は、きゅう、と、せつなく眉根を寄せた。


「殿下……」


 皓義がまた心配そうにこちらの背中に呼びかける。


 ふう、と、静かにひとつ息をついて、燎琉はようやく侍者のほうを振り返った。


「……桂花が、咲いたか」


 口にしたのはそんな言葉だ。風を入れるために開け放してある扉から、秋の風とともに、わずかに、やさしく甘い香りが漂ってきた気がした。


 院子なかにわにある木が、あるいは、花をつけたのかもしれない。


 そういえば、と、燎琉は思い出す。はじめて燎琉の房間へやに足を踏み入れたとき、瓔偲はたしか、桂花の香りがする、と、そんなことを言っていた。椒桂殿の名の通りここの院子にはその木があるから、と、燎琉のほうはそういらえた。


 あのときはまだ葉ばかりだった桂花木は、いま、ちいさく愛らしい花をつけたものと思われる。


 さあぁん、と、秋風が吹いてくる。


 牀榻のとばりの、薄い紗が揺れる。


 秋風に運ばれて、やさしい桂花きんもくせいの香りが寝台のところにまで届いてきた。


「せっかくだ。ひとさし、折ってこようか」


 燎琉は眠り続ける瓔偲にそっと語りかけた。


 あのときの口振りからして、瓔偲は桂花の香を好ましく思うようだった。だったら、いま、彼の傍らに花をつけた枝を置いてやろうか、と、そう思い立つ。その香りに気付いた瓔偲がもしかしたら目を覚ます可能性だってあるのではないか、と、そんな万一の可能性にもすがるような気分だった。


「取ってくるよ」


 燎琉が、そっと瓔偲に微笑みかけながら言ってきびすを返しかけた、そのときだ――……血の気の失せた白い瞼が、ふいに、ふる、と、わずかにちいさくふるえた気がした。


「瓔偲……!」


 その瞬間、燎琉は弾かれたように寝台の縁に取りついていた。間近から瓔偲を覗き込む。


「瓔偲」


 名を呼ぶ。再びかすかにふるえた瞼が、応えるように、やがてゆっくりと持ち上がった。


 はた、はたり、と、瓔偲は緩慢にまたたきをする。


 やがてその下の黒い眸が、ぼんやりとしてはいるが、たしかに燎琉を移し出した。


 薄いくちびるから、ほう、と、長い息が漏れる。


「……殿、下」


 掠れた声に呼びかけられた刹那、まだぼうとするばかりの相手に、それでもたまらずにいついていた。力を籠め、その細い身を抱き締める。


「瓔偲……」


 瞼が、目頭が、じん、と、熱くなる。


「瓔偲……!」


 あふれる想いをこらえるように眉根を寄せ、肩をふるわせて、燎琉は繰り返し相手の名を呼んだ。


「っ、周先生を呼んで参ります……!」


 皓義が慌てて正房から駆け出していき、やがて客房に控えていた|周華柁とともに戻ってくる。老太医は、しとねの上でたしかに目を開けている瓔偲の姿をみとめると、ほ、と、ひとつ安堵の息をついた。


「ああ、ようございました。お目覚めになられましたのならば、まずは、ひと安心です。――皓義どの、水差しに水を。それから、重湯かなにか、瓔偲さまが口にできそうなものを用意させてくださいますかな」


「はい、すぐに!」


 皓義は再び慌ただしく房間へやを出て行く。


 周太医は瓔偲の傍へ寄ると、その手を取って脈を診た。


「ふむ、ふむ……大丈夫そうですな。あとは滋養のあるものを召し上がるなりなんなりして、体力さえ恢復いたせば、もう心配はご無用。ほんに、よろしゅうございました」


 言いながら、まだ顔に心配をありありと浮かべている燎琉を振り返って、老太医は笑う。力強く頷いて見せる周華柁の言葉に、燎琉もようやく、ほう、と、心底からの安堵とともに、長い息をはき出した。


 皓義が水差しを持って早足に戻ってくる。


 燎琉は従者からそれを受け取ると、瓔偲の身体を支えて、ゆっくりと半身を起こさせた。


 背のあたりに綿枕わたまくらを入れてやり、己の肩に相手の身をもたれかけさせるようにすると、瓔偲のくちびるに水差しをあてがって水を吸わせる。瓔偲は最初こそ軽くせてしまったが、すぐに、こく、こく、と、水を飲んだ。


 その、喉の動きに、燎琉の胸には熱いものが込み上げた――……同じような嚥下の動作でも、毒を呑み干したときとはちがう。今度のそれは、瓔偲の生を象徴する動きなのだ。


 いくらか飲み終えたところで、ほう、と、瓔偲は息をついた。


「わ、たし……どうし、て」


 毒杯をあおったはずなのになぜまだ生きているのか、と、瓔偲が訊きたいのはそういうことだろうか。


「じぃの……周太医の調合した発情抑制の薬を、呑んだだろう、朝に。その薬の成分が、偶然、毒をわずかに弱めたらしい。その後は、周じぃが手を尽くしてくれた」


 だから助かったのだ、と、燎琉は瓔偲に経緯を説明した。


朝廷ちょうのほうの諸々は、鵬明ほうめい叔父が、門下もんか侍中じちゅうの手も借りて、なんとかうまくおさめると言ってくれている。だから、それも心配ない」


 言いながら燎琉はあらためて、目の前で瓔偲が毒をあおり、その場に倒れ伏した瞬間のことをまざまざと思い出していた。


 あのとき味わったのは、全身が冷え切るような、言明しがたい恐怖だ。瓔偲が、そのいのちが、この手の中からどうしようもなくこぼれ落ちていってしまう恐ろしさ――……けれども、紙一重の奇蹟で、燎琉は瓔偲を失わずにすんだのだ。


 いままさにこの腕に抱えているぬくもりを、あらためて、限りなく貴く得難く、尊いものにおもう。瓔偲の肩を支える腕に、無意識に力が籠もっていた。


「ほんとうに……よかった」


 燎琉はあらためて、心底から、しみじみとそう言った。


 が、一方の瓔偲は、ちいさく柳眉を寄せて黙り込んでしまっていた。


「どう、して……?」


 そう、先程と同じ言葉を繰り返す。


 今度はそれに別の言葉が続いた。


「どうして、あのまま……わたしを、死なせてくださらなかったのですか」


 ひそめ眉のまま、瓔偲は燎琉を見詰める。喉から絞り出すようにして瓔偲が言ったのは、まぎれもなく、こちらを責める言葉だった。

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