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6-3 特別なつがい

「しかし、俺だって瓔偲えいしの匂いを……」


 燎琉りょうりゅうが戸惑いつつ口に出すと、しゅう太医たいいは頷いた。


「そう、瓔偲さまの匂いを感じ取られているのは、殿下も同じ……瓔偲さまが内殿で毒杯をあおって倒れられた折、殿下はおっしゃっいましたな。白百合の香が消えていない、だから瓔偲さまはまだ生きておられる、と……それでこそ、このじぃの処置がかろうじて間に合い、瓔偲さまはお命を繋がれたわけですが……それはつまり、殿下も瓔偲さまの芳香をつね日頃から感じ取っておられた、と、そういうことでございますな」


 周太医に確認されて、燎琉は、そうだ、と、頷いた。


 白百合のゆたかで高貴な香、瓔偲の香り。やさしいその芳香を、燎琉は瓔偲を迎えてから、幾度もかいできた。


 だが、これまで、そのことをとくべつ不思議に思ったことはない。瓔偲が燎琉のつがいになったからなのだろう、と、単純にそう考えるだけだった。


 けれども、そのことに何かがあるのだろうか。


「じぃ?」


 燎琉がいぶかるように呼ぶと、周太医は、うむ、と、ひとつ重々しくうなずいてみせた。


「殿下……いま申しました通り、いくらつがい同士といえども、普通は、発情期でもないのに互いの芳香を感じ取ったりはしないもの」


「だが、俺と瓔偲は」


「さよう。もしも何もない普段から、おふたりが互いの匂いを感じておられるのだとすれば……それは、おふたりが特別な関係だからにございます」


「特別な、関係……?」


「天の定めし、〈魂のつがい〉と、そう呼ばれるもの」


 百合の香と、桂花の香。


 自分たちは、天の定めた宿命によって出逢い、つがった――……魂のつがい。


「魂の、つがい……」


 周華柁の言葉を鸚鵡おうむ返すように呆然とつぶやいて、燎琉は、ほう、と、息をついた。


「さようにございます、殿下」


 老太医はまた、ひとつ大きくうなずいた。


「出逢った瞬間から互いに強く惹かれ合うことを宿命づけられたつがい……古来より、文献には記述がありますものの、このじぃも、実例に出くわすのは初めてにございます」


 それほどに稀なものではあるが、ふたりはその魂のつがいに違いない、と、周華佗は確信を持って断言した。


「魂のつがい」


 自分たちの間柄なかは特別なもの、と、燎琉は事実を噛み締めるようにゆっくりとつぶやきつつ、腕の中にいる瓔偲を見詰めた。


「そん、な……わけ……ありません。わたしなど……」


 そんなわけがない、と、周太医の言を受けても、瓔偲はまだ聞き分け悪くかぶりを振った。宿命づけられた関係なのだと聞いてなお、自分が燎琉の傍らにあることを、彼は頑固なまでに受け入れようとはしなかった。


 その姿はいっそ呆れるほどにかたくなだ。


 けれども燎琉には、瓔偲がどうしてそんなふうな態度を取り続けるのか、いまはもうわかるような気がしていた。


 自分たちは特別なつがい。


 どうしようもなく互いに惹かれあう――……ならば、燎琉が瓔偲を手放しがたく思うのと同じように、瓔偲とて、きっとそうなのに違いない。彼の本能は燎琉を求め、傍にいたい、と、無意識に望んでしまう。


 だからこそ瓔偲は、いま、燎琉に惹かれるその想いと、燎琉のためには自分ではいけないという思いとの狭間で、心引き裂かれそうになって、苦しんでいるのだ。


 それなら、燎琉が出すべき結論は、もはやたったひとつだった――……その唯一の道をゆく決意を固める。その意志は、静かに、けれども高い温度でさかり立つ、青いほむらのようなものだ。


 燎琉は瓔偲の手をしっかと取った。


「瓔偲」


 真っ直ぐに相手に呼びかける。すう、と、息を深くまで吸い、ゆっくりと吐き出すと、燎琉は瓔偲の涙に濡れた黒い眸をじっと見詰めた。


とう国第四皇子・しゅ燎琉りょうりゅうは、そなたを……かく瓔偲えいしを、我がきさきに望む」


 真摯に、愚直に、こいねがった。


 言った瞬間、瓔偲は燎琉の顔を見ていっぱいに目を瞠り、息を呑んだ。燎琉は瓔偲を真っ直ぐに見据えたままで言葉を継ぐ。


「俺の、妃になってほしい、瓔偲。父帝の勅命など関係ない。これは俺自身の意思だ。俺は、俺の意思で……いまお前に、あらためて求婚する」


「で、も……」


 いけません、と、それでもなお瓔偲は首を縦に振らなかった。


「瓔偲……!」


 燎琉が迫るように相手の名を呼んだときだ。


「取り込み中のようだが、少々邪魔をするぞ」


 ふいに折扉とびらのほうから声が聞こえた。振り向くと、いつの間にかそこには、開け放たれた扉に背を預けるようにして、鵬明ほうめいが立っている。


「叔父上」


 振り向いた燎琉の視線を受けた叔父はちらりと口の端を持ち上げ、人を喰ったような笑みを浮かべつつ、つかつかと房間へやの中へと歩み入ってきた。


「殿下」


 皓義や周華柁かだは、それぞれ皇弟おうていに対し頭を下げ、礼の姿勢を取る。


「ああ、楽にしろ」


 鵬明は軽く手を振ってそう言うと、燎琉と、それからとこについたままの瓔偲とを交互に見て、おもむろに口を開いた。


諸々もろもろあと処理に目処が立ったので報せに来た」


「と、いうと?」


 燎琉が訊ねると、相手はこれ見よがしの溜め息を吐いて見せた。


「燎琉、我が可愛い甥御どの。お前はまあ、莫迦ばかのように真正面から皇帝に逆らいおって……今後、冷遇されても知らんぞ」


 鵬明のその言葉に、は、と、息を呑んだのは臥牀しんだいの瓔偲である。


「鵬明さま、どうか……陛下に、お取りなしを。殿下には、陛下への叛意はありません。すべて……わたしが、悪いのです。ですから……」


「なにを言う! お前にどんな非が……」


 燎琉が瓔偲を咎め立てるような声を上げると、それを見た鵬明が刹那、目をすがめる。やがて叔父は、くつりと喉を鳴らした。


「まあ、ふたりとも、そう慌てるな」


 くすん、と、肩を竦める。


「冷遇というのは冗談だ。そも、燎琉を冷遇などと、あの皇后がさせるものか。――ま、さすがにしばらく立太子の話は先延ばしにはなろうがな。完全に芽が摘まれたわけではないから安心しろ」


 鵬明は瓔偲に向かって笑んでみせた。


「さて、本題だが。陛下が門下もんか侍中じちゅうはかって、結果、事案の裏にいたとおぼしきそう吏部りぶ尚書しょうしょばん尚書令しょうしょれいは、それぞれ次の除目じょもく太傅たいふ太師たいしに叙されることになった」


 言いながら、鵬明は、に、と、口の端を上げる。叔父が可笑しそうに笑う意味は、燎琉にも十二分に理解された。


 なにしろ太傅も太師もともに名誉職である。とう国ではこれまで長く空位となっていた官職だった。


 位ばかりは高いものの、まつりごとの実権は一切ない職位に敢えてふたりを就けるというのは――権門の家柄に一応の配慮はしつつも――政の表舞台からの、事実上の追放といえた。


「それからそう清歌せいかだが。これは我が母が……皇太后が、しばらく下働きの女官として使うそうだ。数年はこき使ってやるからまかせておけ、と、母上はそう仰せだったが、まあ、実際にそうなるのだろう」


「そうですか」


 かつては夫婦めおとになることも考えた少女の顛末に、燎琉はやや複雑な気持ちになった。


 もちろん、彼女が瓔偲に為したことを思えば同情してやる謂われなどはない。だがそれでも、なんなく憐れなような、言葉にしがたい感情が湧くのを禁じ得なかった。


 こちらの表情から、そうした心情を読みとったのか、鵬明は呆れたふうに息を吐いた。


「憐憫などは要らぬ世話だぞ、燎琉。そも、因果応報、自業自得なのだからな」


「ですが」


「まあ、煌泰おうたいにすこしでも清歌への情があれば、どんな方策ほうを使ってでも救い出すだろうさ。とはいえ、どうかな……今度のことで、あれは即座に内定していた婚約を白紙に戻したようだから」


 あまり期待できないかもしれない、と、鵬明は言外にそう告げて、皮肉めいた笑みを見せた。


「それでも後はあのふたりと、それから万家と宋家との問題だ。私たちの出る幕ではない」


 鋭く息をはいての叔父の言葉に、燎琉はわずかに眉根を寄せつつも、はい、と、短く頷いた。


 叔父の見せる厳しい表情は、燎琉らが巻き込まれた今度のことが、まごうかたなき権力闘争であったことを実感させる。甘い綺麗事ばかりでは済まないのだ、と、燎琉はくちびるを引き結んだ。


「それよりも、燎琉」


 そこで鵬明は、じっとこちらを見ると、今度は違う話題を振ってきた。


「お前が瓔偲を娶るのなら、繍菊しゅうぎく殿でんには華轎かごを出す用意がある。皇太后の許可ももらったことだし、瓔偲は私の養子格としてお前に嫁がせよう。――どうだ?」


 燎琉は叔父の言葉に目を瞠った。


 もちろん、皇弟の鵬明が瓔偲の後見うしろみになってくれるというのなら、これは願ってもないことだ。わたしなど、と、度々自らを卑下するようなことを口にする瓔偲の心の荷も、これですこしは降りるだろうか。


 燎琉は表情を明るくして、臥牀の相手を見やる。しかし、案に反して、瓔偲はまだ硬い表情をしていた。


 その瞳は、鵬明を真っ直ぐに見返している。


「皇弟殿下のお心遣いは誠に勿体なくは存じますが、わたしには第四皇子殿下に縁付くつもりはございません」


 敢えてなのだろう、瓔偲の言い方は、ひどく他人行儀なそれだった。


「ほう、珍しく随分とかたくなではないか、瓔偲」


「いつもどおりです」


「はは、そうかな。最初に燎琉とのことが内定したときは、お前、唯々いい諾々だくだくとそれに従ってみせたではないか。それを、それこそ此度は、なぜそこまで頑固に拒む?」


 あのときといまとで何が違うのだ、と、鵬明は瓔偲の顔を窺うように覗き込む。瓔偲は柳眉を寄せて、かすかに俯いた。


「べつに……」


「答えられぬか? ならば、私が代わりに教えてやろうか?」


 に、と、叔父は人を喰ったような笑みを瓔偲に向けた。

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