「よう、キジマ」
踝ほどの高さの湖が無限に広がる世界の真ん中。そこでキジマはイータイと出会っていた。
「死んだんじゃなかったのか」
「一度受肉した魂はそう簡単には消えんよ」
キジマは敵意を隠さない目で睨んだ。
「また体を乗っ取ろうってわけじゃない。そもそもそんな力はもう残ってないからな」
「じゃあ何をしに来た」
「お前に力を貸してやろうと思ってな」
不信。それが瞳に加わった。
「おいおい、そんな顔するな。俺は嘘は吐かん」
キジマは黙って続きを待つ。
「お前はケサンの絶対量がそう多くない……身体強化とその他の術との完全な併用は不可能だ。そんな状態で影術師団相手に戦い抜けるのか?」
「どうだっていいだろ」
「お前に死なれたら俺も消えてしまう。だから俺のケサンをくれてやる」
逡巡した。肚の底が見えないのだ。
「そう疑るな。利害は一致している。違うか?」
頷くことができない。プライドか、敵意か、その両方か。キジマは沈黙のまま目を逸らさなかった。
「考えておく価値はある。もし力が欲しくなったらいつでも呼べ。喜んで助力しよう」
イータイの体が徐々に透明になっていき、やがて消える。
「糞が……」
キジマは一言、そう吐き捨てた。
◆
「──マ、キジマ!」
ヨウマが談話室のソファで魘されている親友の体を揺さぶっていた。キジマはハッと目を覚まし、右に左に周囲を見渡した。
「悪い夢でも見てた?」
「そういうわけじゃ……いや、似たようなものかもな」
「どういうこと?」
「イータイが生きていた」
「まさか」
キジマはヨウマの顔を一度見てから、俯いた。
「力をくれるらしい……どこまで信じていいかわからないけどな」
「また体を奪われたりはしないの?」
「そのレベルの力は残ってないらしいが」
「ま、ニーサオビンカの言うことだしね」
「ああ。肉体を得るための嘘の可能性は十分にある」
指を組み、背を曲げる。
「……マジで死にかけたら頼ってみるか」
「いざとなったら僕がいる」
「頼んだぜ、相棒」
フィストバンプ。再び結界を消失させることをユーグラスは許可しないだろう、という認識を二人は無言のうちに共有していた。ならば最悪の事態が生じた際の選択肢は一つだ。
「でも、二人分のケサンが使えたらだいぶ強くなれるんじゃない?」
「そこなんだよな。多少のリスクを冒してでもやる価値があるのかもしれねえ」
「ま、ゆっくり考えようよ。焦ってもいいことないし」
「そうだな──」
サイレンが会話を妨げる。
「中央区でバスジャック発生。影術師団によるものと推測。繰り返します──」
二人はすぐさま走り出す。雪の中近くのパトロールカーに飛び込み、無線で状況を聞く。
「実行犯は鄭目と妖狐と思われます」
女の声がそう告げた。
「死人は?」
「既に10人近く出ています。偶然乗り合わせた社員が対処していますが、長くは保たないでしょう」
車はサイレンを鳴らしながら飛ぶように走る。
「目的はわかる?」
「今のところ乗客の解放については何の連絡もありません。おそらく殺戮それ自体が目的なのでしょう」
「最悪な連中……」
ヨウマは呟いた。
現場までは15分ほどで到着した。往来の真ん中で停まっているバスから、影を纏った鄭目と、結界で作った半透明の刀を握った妖狐が降りてきているところだった。
「来たね、ヨウマ!」
鄭目は口角を歪に上げる。
「何人殺したの?」
刀を抜きながらヨウマが尋ねた。
「数えてないよ。でも全員死んだ」
侮蔑と嫌悪を切っ先に込めて向ける。
「まあ僕らの目的はバス1台に乗ってるニェーズを皆殺しにするような、ちゃちなことじゃない……影術師団の未来のために障害を排除することだ」
「つまり?」
「君を殺しに来たんだよ、ヨウマ」
「じゃあ帰った方がいいよ。僕には勝てない」
「そうかな!?」
一瞬の内に鄭目に距離を詰められ、ヨウマは危うく顔面を引き裂かれるところだった。
「ほら、ギリギリじゃないか」
攻撃に次ぐ攻撃。乱暴に振り回される爪を避け、弾き、隙間に斬撃を捻じ込む。しかし影は刃を通さなかった。
そうしている内にキジマが鄭目の背後に回る。渾身の一撃を喰らわせる──直前で弾丸のようなものが彼の前を過ぎ去った。結界で作られた矢だ。それはバスの外装に突き刺さり、消えた。
「鄭目の邪魔はさせないわ」
「ちいっ……」
彼はファイティングポーズをしたままじりじりと妖狐に近づいた。結界の剣が振り上げられたその時、飛び出した。後の先、という言葉がある。換言すればカウンターだが、相手が攻撃の姿勢に入ったタイミングこそ最も大きな隙ということだ。キジマはそれを闘いの日々の中で学んでいた。無防備になった腹部に、拳が突き刺さる。柔らかい肉に食い込んだ棘が、捻じられることで肉を抉った。破れた服から覗くのは、白い肌。
ふらつきながら妖狐は少し離れた。
「いい拳。でもそれだけでは!」
結界の矢が次々と放たれる。その隙間を通り抜けてキジマは相手を間合いに捉える。顔面を狙って放たれた、風を纏った拳。するりと受け流され、彼は投げ飛ばされる。着地と同時に走り出し、再び攻撃を仕掛けるが、結界で作り出された箱が高速でその腹に直撃した。吹き飛ばされ、受け身も取れなかった彼は痛みを堪えながら立ち上がった。
「頑丈なのね」
「ヤワな奴にできる仕事じゃないんでな」
脚にケサンを送り、再び向かう。遠距離攻撃は牽制だ、と彼は見抜いていた。大して当てる気もない攻撃。前進は容易だった。問題はそれからだ。拳を突き出してもピンポイントな結界に阻まれ、届かない。
「苦戦してるな」
頭の中で声がする。
「俺だよ、イータイだ。早く頼れよ、簡単だろ?」
「……誰が!」
湧き上がってくるもう一つの意識を振り払った。
「誰とお喋りしているのかしら!」
結界弾が額にぶつかる。よろめいたところに、連続する弾丸。貫通はしない。鈍痛がする。動きが止まったところに、妖狐が刀を握って近づいてきた。
「私の結界は無敵よ」
息を切らすキジマの顎を、彼女はそっと撫でた。そして振り抜かれた刀。胴を両断するかと思われたそれは空を斬った。
「どこに──」
周囲を見渡した彼女の脳天を、拳が打った。
「詰めが甘くて助かったぜ」
キジマは不敵な笑いで拳を構え直した。まだクラクラとしている妖狐に、連撃。足払いで体勢を崩し、馬乗りになる。思いっきり殴ってやろうとすれば、結界が止めた。まずい──上体を逸らした彼の顎を、結界の拳が掠めていった。だがそれとほぼ同時に胸をインパクトが襲って、彼は引き剥がされる格好になった。
「甘いのはどっちかしらね」
頭から血を流しながらも、妖狐の表情には余裕がある。絶対的自信。それをキジマは感じ取った。
「諦めな」
また彼の心中にイータイが現れた。
「俺のケサンを合わせればあんなちゃちな結界打ち破れる。お前の限界が来てからじゃ遅い。判断しろよ」
「うるせえ!」
頭を横に振る。
「俺は俺の力だけで勝つ!」
「貴方、幻覚でも見えているの? お薬は寿命を縮めるわよ」
キジマは返答するつもりなく地面を蹴る。拳のコンビネーションは悉く防がれ、風の刃も結界の表面を引っ掻く程度で大した効果はなかった。
「結界はエネルギーの流れだ。それに介入するように、こっちもエネルギーを送り込む必要がある。お前にゴス・キルモラをくれてやろう。それでエネルギーの流れ方を感知できるようになるはずだ」
頼んでもいない助言だが、彼はそれに従う以外の選択肢を持たなかった。刃は納めて、通常の攻撃を当てる。結界に僅かに食い込んだ棘を起点に、ケサンを流し込む。幾層にも重なった魔力。それに逆らうように、ケサンを。すると不思議なほど脆く結界は崩れた。
「対結界術!?」
驚く妖狐を、彼は殴り飛ばした。
「この短時間で成長したというの!?」
狼狽しても攻撃の手を止めないのが妖狐だ。結界弾の雨がキジマに降り注ぐ。
「イータイ」
避けながら彼は呟く。結界を破るには相応のケサンがいる。ならば選ぶ余地はなかった。
「だいぶケサンを使った。俺に分けろ」
「喜んで」
顔は見えないがニヤついた表情をしていることだろう、と浮かんでくる。それを消し去るように、彼は拳を振るった。結界を突き破り、風の刃を相手の顔にぶつける。妖狐の顔面の左半分はズタズタに引き裂かれた。
「鄭目!」
彼女はバディの名前を呼ぶ。鄭目はすぐに走り寄ってきて、背中を合わせた。
「こっちも纏の維持に限界が来た。撤退しよう」
その提案に彼女は頷いた。
「次は殺すわよ」
そう言い残して、自己召喚で転移した。糸が切れたようにキジマは崩れ落ちる。
「大丈夫?」
「だいぶやられた。お前は?」
「怪我はしてないよ」
ヨウマには見える傷がない。
「やっぱすげえよ、お前は」
「でしょ。でも斬れなかった。硬いね、アイツ」
差し出された手を、彼は握った。立ち上がった時、晴れ間が見えた。
◆
帰還した鄭目と妖狐を迎えたのは、猿の式神を連れた陽議だった。
「こっぴどくやられたね」
彼女は妖狐の傷に手を翳し、回復魔術である回を使う。
「目の修復はできない。ここまで複雑に傷つけられたのを治そうとすれば、魔力を使い切ってしまうからな」
「仕方ないわ。油断した私の責任」
影を解いた鄭目は、それなりにハンサムな青年だった。穏やかな印象を与える。だがオレンジの髪のオールバックは少々威圧感があった。
「無理はするべきじゃない」
鄭目はそう言う。
「次は僕一人で行くべきかな」
「もしかしたらキジマは貴方の纏を突破するかもしれない。式神の表面も原理としては結界と同じ、魔力の流れ。対結界術を習得していれば破壊され得る……」
二人は揃って暗い顔をした。
「まずは療養だ。妖狐、当分は安静にするんだ」
「わかった」
「とは言ってもそんな時間的余裕はないんだが……」
影術師団の戦力は削がれている。補充要員の育成も簡単ではない。閃太郎が実戦レベルまで育つにはまだ訓練が必要だ。
「行こう、妖狐」
鄭目が声を掛けた。
唯利妖狐、というのは偽名だ。本名は誰にも明かしていない。冥道衆も含め、鉄傑の下にいる者はそういうことが多い。そんな彼女はケリュエーンと呼ばれる異世界で、魔術医の両親のもとで育った。だが亜人の強盗に襲われ、一夜にして全てを失った。それからだ。亜人を憎み、テレビに映る影術師団に憧れたのは。
接触の切っ掛けになったのは、地球の大学に入った頃。亜人の男を絞め殺したこと。ちょっとした揉め事が原因だった。述べるまでもないことだ。だがそれを機に警察に追われ、結果鉄傑に拾われた。
だから鉄傑の理想を共に追いかけることにした。亜人のいない清らかな世界。それにどれほど憧れたか。言語魔術も死した両親に近づけるように思えて好きだった。
故に亜人につけられたこの傷が忌まわしい。姿見の前で憎悪を燃やす。相応の苦しみをくれてやらねばならない。左手で傷を撫で、右手を握りしめる。自分にあるのは鉄傑をも超える莫大な魔力と結界術の才能のみ。式神には頼れない。
(認識阻害結界とアーデーンに繋がるゲートは冥道衆が管理してるから、万が一私が死んでも心配はない)
着物を脱ぐ。ほっそりとした裸体には無数の刺青。どれも瞬時に結界を生み出すための仕込みだ。言語魔術は口による詠唱以外に、刺青や呪文を記した他の物体を使用することでも発動できる。
亜人は排せねばならない。その信念の下、彼女は決意を新たにした。