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6月4日 涙が思い出させてくれた

 体育館の天井に、竹刀の鋭い打突音と、動物の泣き声にも似た掛け声が響く。

 剣道においては「気合い」とも呼ばれるこの掛け声は、傍から見れば滑稽にも感じられることもある。

 でも手に持った武器で相手をぶっ叩くなんていう、スポーツの中でもきわめて特異なこの競技においては、その覚悟を決めるための一声と言ってもいいのかもしれない。

 やってる本人たちは、とっくに竹刀を人体に打ち込むことなんかには、慣れ親しんでいるけども。


「わたし、生で剣道見るのなんて初めてです」

「まあ、普通の人は一生涯でも来ることないだろうね」


 地区予選会場となっている市民体育館の観覧席で、宍戸さんとふたり並んで座って競技場を見下ろす。

 この無機質なプラスチックの固定椅子も今となっては懐かしい。

 高校に入ってからというもの、他のスポーツ観戦もとんとしなくなってしまった。

 中学のころまでは、地元のサッカーチームの応援とか、隣県の野球の応援とか、たまに父親が連れて行ってくれたものだけど。


「ところで……星先輩、なんでサングラスなんですか?」


 宍戸さんが、私の顔を見ながら首をかしげた。

 今日の私はグラサンとキャップ、ついでに長い髪も後ろでまとめて、普段と比べればささやかな変装を施している。

 なぜかと言われたら、単純にウチの部員に見つかりたくないから。


「気分……かな?」


 宍戸さんはたぶん、私が剣道部の幽霊部員であることは知らない。

 と言うか、知ってて誘ったのならなかなかのやり手だ。

 彼女はそういう子ではない……と思う。


「穂波さんに簡単に教えて貰ったんですが、剣道って先に二回勝てばいいんでしたっけ……?」

「そうだね。団体でも個人でも、二本先取で勝ちになるのは同じ。有効部位はメン、コテ、ドウの三つと、高校生はツキもかな」

「ツキって……あの剣で突くんですか?」

「そう。あのノドのところのちっちゃいのが有効部位」

「なんだか怖いですね……」

「実際、難しいし、審判もあんまり取ってくれないから、好んで狙う人はそういないけど……とか話してるうちに、出番が来たみたい」

「えっ、どこですか?」

「隣の試合場だね。移動しようか」


 私たちは立ち上がって、隣の試合場が見やすい位置に席を移動する。

 眼下では、たった今決着がついた別の選手と入れ違いに「八乙女」の垂れネームを付けた小さな剣士が、これから踏み入れる試合場に一礼する姿が見えた。


「相手の人、大きいですね。大丈夫でしょうか」


 穂波ちゃんの向かいに立った相手選手は、比べればひと回りもふた回りも大きな体格をしている。

 しっかりと鍛え抜かれた大人の身体。

 たぶん三年生。


「頑張れ、穂波さん……」


 宍戸さんが、祈るように手を合わせて、ぎゅっと目をつぶった。


「目、開けてなきゃ見えないよ?」

「あ……そ、そっか」


 彼女は慌てて目を開けて、代わりに合わせた手に先ほど以上の力がこもった。


「始め!」


 観覧席にも届く主審の一声で、試合が始まる。

 両者すくりと立ち上がって、竹刀の先と先が触れる距離で間合いを牽制し合う。


 先に動いたのは相手選手からだった。

 優れた体躯を生かした、真っすぐ、それでいて重量感のある打ち込み。

 穂波ちゃんは竹刀でいなしてから、正面からぶつかりあわずに距離を取った。

 相手が向き直った瞬間、今度は穂波ちゃんの方から攻め込む。

 ほんの数秒の間に、めまぐるしい竹刀の応酬が繰り広げられる。


「なんだか、凄すぎてよくわからないです……これは、どっちが有利なんですか?」

「相手の人、すごく上手い。たぶん全国レベル。穂波ちゃんは、それに頑張って食らいついてる感じかな」

「そうなんですね……」


 宍戸さんは、心配そうに両の眉尻を下げた。

 そんな応援席の問答が試合場の選手に聞こえるわけはなく、見つめる先では果敢に攻める穂波ちゃんの姿だけがあった。

 あそこにいると、自分と相手と審判の声意外、本当に何も聞こえなくなるんだ。


 刹那、審判たちの白旗が一斉に上がった。

 剣道の試合で、技の有効かどうかは審判の持つ紅白の旗で示される。

 赤が相手で、白は穂波ちゃん。相手のメンに対して、下から潜り込むように合わせたコテが上手く刺さったようだ。


「すごい! やった穂波さん!」


 隣で、宍戸さんが飛び跳ねんばかりの様子で喜ぶ。

 私も、いつの間にか止めていた息を大きく吐いて、開始線に戻る小さな背中を見つめた。


 強いんだろうなとは思ってたけど、ここまでとは思ってなかった。

 総合的な実力自体は、きっと相手の方がある。

 でも自分の戦い方でそれに抗うだけの経験と自信が、穂波ちゃんにはあるのだ。


 しかし、一度仕切り直してから続いた二本目で、すぐに相手にメン一本を取り返されてしまう。

 先制の一本を取って油断したのだろうか。

 いや、単純に体力の問題だろう。

 体格差を埋めるためにペース配分を前倒ししているのか、穂波ちゃんの今の動きには、目に見えて疲れが感じられた。


「頑張って……」


 泣きそうな顔になりながら見守る宍戸さんの横で、私の息も詰まった。

 試合にはどうしても流れというものがある。

 そのスポーツに通じていれば通じているだけ感じてしまうし、どうにかして打ち破りたいとも思う流れ。


 未来ある後輩に、それを成し遂げて欲しいと思った。

 でも同時に、高校公式戦初参加でここまで来たなら十分じゃないかという思いもあった。

 彼女にはまだ来年、そして再来年がある。

 そのころには、高校生の剣道界隈では県内――いや、全国でも指折りの選手になっているかもしれない。


「ああ……」


 隣から、悲鳴にも似た嗚咽がこぼれる。

 勝負を決めるトドメのメン一本が、穂波ちゃんの頭上から叩きつけられていた。

 会場に拍手が響く。

 勝者と敗者、どちらの陣営からも等しく響くその音は、スポーツマンシップに則ったものだろう。

 でもその一方で、「十分やったし、今のあなたはそこまでだ」と言われてるような気もして、とても残酷だなと私は感じる。


「穂波さん、残念でした……でも、かっこよかったですね」

「そうだね」


 言葉だけで頷き返して、その視線は仲間たちのもとへ戻る穂波ちゃんの姿を追っていた。

 試合場から少し離れた場所で、腰を下ろして面を外す。

 ようやく露になったその表情は、体力の限界で絶え絶えの息と一緒に、大粒の汗と涙でぐっしょりと濡れていた。

 彼女はそのまま、頭にかぶっていた手ぬぐいで顔を覆ってうずくまる。

 仲間の部員たちが慰めるように、笑顔でその背中をさすっていた。


 彼女にはまだ先がある。

 だけど今日の敗北に、全力で悔し涙を流していた。


「かっこいいね、本当に」


 今度のそれは、心から溢れた言葉。

 悔しくて、涙を流せる穂波ちゃんは、憧れるほどにかっこいい。

 負けて泣けるうちは、彼女は剣士だ。

 だから、中学最後の大会で泣けなかった私は競技を辞めた。


「宍戸さん、来週の日曜日って予定空いてる?」

「来週ですか? えっと……空いてます」


 こんな時に言うのもどうかと思ったけど、今のこの気持ちの時にしか、誘えないような気がした。

 悔しさに先が存在するなら、楽器が吹けないと言って泣いた彼女にも、きっとまだ未来がある。

 後輩が、頑張って、負けて、そして泣いてる姿を見なければ、そんな簡単なことにも気づかないなんて。


 あのチケットを貰って、あの涙を知る私は、宍戸さんを演奏会に連れて行かなければならない。

 はっきりと、そう思えたんだ。

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