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11月

11月1日 それだけで救われた

「ばーん! ってさ」




 朝の教室に、ユリの屈託のない声が響く。


 彼女は左手で作った握りこぶしに、右の手のひらをスパーンとぶつけてみせた。




「信号待ちしてたところに、脇見運転の車が後ろから突っ込んできたんだって」


「それは大丈夫なの? その、お父さんも車も」


「それが、衝撃で腰やっちゃったみたいでさ。リハビリも含めて一ヶ月くらい入院だって。車も社用車だから、労災とか保険とか手続き大変だーってボヤいてたよ」




 ヘラヘラと語るユリの様子を見るに、命に別状がある怪我ではないみたいだ。


 なら良かった。


 てか、昨日はびっくりして落ち着かなかった自分自身が恥ずかしい。


 なんともない――わけではないんだろうけど、安心していいなら、そうだって連絡くれたらよかったのに。


 まあ、ユリが元気そうなので良かったけど。


 アヤセも流石に真面目そうな顔をして、ため息を吐くように頷く。




「腰ってようは背骨だろ? 当たりどころ悪かったらヤバそうだったな」


「うん。でも、歩けなくなるってことはないみたい。リハビリすれば、ちゃんと元の生活には戻れるって」




 こういう時、不幸中の幸いって言ってもいいのかな。


 私もユリのお父さんには何度か会ってて良くしてもらっているし、口には出さないけど、それで済んで良かったと胸をなでおろした。




「っていうことは、今ってユリ、家にひとり?」


「そうなんだよー。寂しいよー」




 そう語るユリの口調は、いつもと変わらず陽気なものだった。




「あっ、そうだ。あたし今日も勉強会休むね。帰りにこれ、病院に届けなきゃいけないから」




 机のわきに、いつものスクールバッグとは別の大きな旅行鞄が吊り下げられていた。


 長期入院だし、たぶん着替えとか必要なものを詰め込んでいるんだろう。




「一緒に行こうか? できればお見舞いもしたいし」


「んー」




 私の提案に、ユリは迷ったみたいに小さく唸る。


 そして、苦笑しながら静かに首を振った。




「大丈夫だよ。それに今、ほんとに寝たきりだから、リハビリくらいできるようになってからの方がお父さんも喜ぶと思う」


「そっか、わかった」




 一瞬、無理にでもついていこうかなって思ったけど流石にやめておいた。


 けがの程度がどのくらいだとしても、事故直後の今がいちばん大変な時だろうし、逆に気を遣わせてしまうかもしれない。


 でも一ヶ月の入院か……時間の感覚は人によると思うけど、ちょっと長いなって私なんかは感じてしまった。




 それからなんてことはなく授業は終わって帰宅する。


 今日は心炉も家庭教師の日だし、アヤセとふたりだけならと、放課後勉強会もナシにすることにした。


 アヤセもこの機会にドラムの練習をガッツリしてくるって言ってたし、たまの休みはあっていいのかもしれない。




 私も最低ノルマ的な分量の勉強を済ませると、ブラックバードを抱えてクリコンの練習に移る。


 まだまだ引き間違え、押さえ間違えはあるけれど、ゆっくりしたテンポなら通して追えるようになってきた。


 須和さんの求めるレベルには全く達してないと思うけど、多少は面目を保てる程度にはなったかな……。


 今週末は剣道部の新人大会があると言うので、穂波ちゃんはそっちに集中してもらって。


 私たちクリコンメンバーの初合同練習は、来週のどっかで行うことになった。


 まあ、面子の日ごろの予定を鑑みれば水曜日か日曜日かな。


 あとは平日が良いか、休日が良いかって話だ。




 三回ほど通して弾いてみてから、ふっとひと息つく。


 時刻は夜の七時ころ。そろそろご飯だけど……そう言えばユリ、どうしてるかな。


 病院で少しゆっくりするにしても、そろそろ家に帰ってると思うけど。




 スマホを引っ張り出してみても特にメッセージは入ってなかった。


 約束をしてるわけじゃないから、状況が知りたいなっていうのは、単純な私のエゴイズムだ。


 もし困っていることがあるなら力になりたい。




 とはいえ、もともと父親とふたり暮らしのユリは、そこらの女子高生――それこそ私なんかよりも、ずっと生活力があると思う。


 部屋に籠ってればキッチンで食事の用意が進んでて、汚れ物を出せば翌日の朝には綺麗に洗って干されてる生活とは違う。


 ひとりになったからって、別段困るってことはないのかもしれない。




 だけど話を聞くくらいでも……そう思って、「家着いた?」と軽めのメッセージを一通だけ送ってみた。


 既読はすぐについた。


 というかトーク画面にメッセージが流れた瞬間についた。


 あれ、今もしかしてトーク画面見てる?


 それを裏付けるように、数秒と立たずに返事が帰ってくる。




――ご飯食べたとこー。




 立て続けにファミレスの店内の写真が送られて来た。


 病院の帰りにどっかで食べてるのかな。




――呼んでくれたらよかったのに。




――まだ学校なの?




――今日は帰ったけど。




――じゃあ悪いよー。


――おっかあの美味しいご飯をおたべ。




 何キャラなんだそれは。


 思わずクスリとしながら、画面に指を走らせる。




――お父さんの様子はどうだった?




――暇そうにしてたよ。


――昨日今日で過去イチ寝たって言ってた。




――明日も行くの?




――ううん。


――お見舞い来るなら勉強しろって怒られちゃった。




――賢明な判断だと思うよ。




――星がお見舞い来たいって言ってたの伝えたら、よろしく伝えといてって。




――よろしくされました。




――よろしい。


――お見舞いもわざわざ大丈夫だよって。




――わかった。


――逆に気を遣わせちゃったね。




 本当に、箸にも棒にもかからない会話。


 こんな当たり障りのないことを話すために連絡したわけじゃなかったんだけど、私のトークの引き出しじゃこれが精一杯だった。




――何か困ってることはない?




 だからせめてストレートな言葉で、それだけは聞いておくことにした。




――大丈夫だよ。




 画面に並んだその言葉が、やけに遠いものに感じられた。


 大丈夫って言われたらそれで終わり。今、私にできることは何もない。


 そういうこと。


 唯一あるとしたら、その言葉を信じて明日という日を迎えるだけだ。




 わかったって返すべきなんだよね。


 頭ではそう決めているけど、実際にメッセージを打つのは躊躇してしまった。


 だけどそれも、ユリが何か困っていて、私を必要として欲しいっていうエゴイズムなのだと思う。




――連絡くれてありがとね。




 私が返事を打ちあぐねている間に、ユリから追加でメッセージが入った。


 ありがとねっていうその言葉だけで、なんだか私の方が救われたような気分だった。

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