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第118話 この物語はこれで終わりじゃない 1


「晴れたら、生きろ――か」

 俺が決断にいたるまでの経緯を聞いた高瀬は、しばらく間を置いてから空を見上げた。そこは前日の予報通り、雲一つなく晴れ渡っていた。

「それで神沢君。晴香の手術はうまくいったの?」


 俺はうなずいた。

「これで四年以内に悪い発作が起こることはまずないそうだ。四年あれば治療法が確立される。あいつは少なくとも心臓の病気で死ぬことはなくなった」


「それはよかった」と高瀬は言った。「神沢君が自分の夢を引き換えにしてまで救おうとした命が救えなかったら、悲劇という他なかったもの」


 俺は背筋を伸ばし、頭を下げた。

「高瀬、ごめん。俺の進学資金の足りない分として新人賞の賞金を渡してくれたのに、勝手にほかの使い方をしてしまって。前も言ったようにこの金はいつか必ず返す。本当に申し訳ない」


「あのお金のことなら別にいいの」と彼女は俺に頭を上げるよう|うながして言った。「だって考えてみて。元々『未来の君に、さよなら』は二十年前に晴香のお父さんと神沢君のお母さんが二人で生み出した作品だよ? 私はあの二人の許可を得てそれを現代風にアレンジしただけ。そうやって獲得した賞金を神沢君が晴香の命を救うために使う。うん。なんだかこれ以上ないくらい真っ当な使い道のように思える。『未来の君に、さよなら』は恭一さんが晴香を生かすための小説だったとすら。だからお金に関して、私はとやかく言うつもりはないの。ただ――」


「ただ?」


「ただ、本音を正直に言わせてもらうと――今さらこんなこと言ってもどうしようもないんだけど――神沢君と一緒に春から鳴大に通えないことが残念で仕方ない。試験に落ちたんならともかく、せっかくどっちとも受かったのに。ふたりでキャンパスを歩きたかった」


「最後の最後に約束を守れなくなって、ごめん」


「神沢君。この選択に、悔いはないの?」


「俺が鳴大に入る機会はこの一度きりじゃない。試験は来年も再来年もその次の年もある。いつかまたその試験に受かればいい。でも柏木の人生はこの一度きりだ。あいつの命は一つだ。ここでその命を救わないで“また今度”ってわけにはいかない。悔いがまったくないと言えば嘘になる。でもあいつを見捨てて鳴大生になっていたら、そっちの方がよっぽど毎日悔やんでいただろうな。ただ――」


「ただ?」


「ただ、きれいごと抜きで今の素直な心境を打ち明ければ――もう何を言っても遅いけど言わせてくれ――俺は大学に行きたかった。春から鳴大に通って、獣医を目指したかった。そして高瀬が翻訳家を目指す姿を、間近で見ていたかった」


「つらい選択だったね。よく選択することから逃げなかったね。私は神沢君を尊敬する」


 その高瀬の言葉を聞いて、きのうから俺のなかで張り詰めていたものが音を立てて決壊した。柏木の命が助かった安堵感。高瀬との約束を破ってしまった罪悪感。春から大学生にはなれない無念さ。この決断を下さなければいけなかった無力さ。そういうものが体の奥底からどっと一気に込み上げてきた。


 俺は気づけば視界に何も映らなくなるほど涙を流していた。


 そこで温もりを感じた。高瀬が抱きしめてくれたのだと遅れて気づいた。彼女は俺の背中を優しく撫でて、言い聞かせるように耳元でささやいた。


「こんなの、正解なんてないよ。神沢君が選んだ選択肢が正解だよ。私もやっと現実を受け止められるようになってきた。もし神沢君が晴香の命より自分の夢をとって鳴大に通っていたなら、それはそれでちょっと軽蔑したかもしれない。さっきの本音と矛盾してるよね。うん。やっぱり正解なんてない。とにかく私は神沢君の選択を尊重する。晴香は私にとって大事な友達。あの子の命を救ってくれて、ありがとう」


 泣けるだけ泣いて涙が涸れると、不思議なもので、少し気持ちの整理がついた。俺が泣きやむまで結局高瀬は体を抱きしめてくれていた。俺は彼女に感謝を述べて、抱擁を解いた。


「ひとつ聞いてもいいかな?」と高瀬は言った。

「ああ」


「さっきちょっと話に出たけど、来年以降にまた鳴大を受けて、夢の続きを目指そうっていうつもりはある?」


 それについて考えてみると、胸のあたりがほのかに熱くなるのを感じた。俺はそれを高瀬に伝えた。


「そう! なら、やっぱり私が前に提案したようにすればいい。春からはうちに住んで、タカセヤの社員としてお父さんの運転手をするの。そうすれば家賃や光熱費を節約できるし、進学費用も稼げる。お父さんには給料を大盤振る舞いするよう、私から掛け合っておくから。獣医学部志望で浪人ってぜんぜん珍しいことじゃないし、そうしなよ」

「ありがとう」と俺は言った。


「私は春から鳴大に行く。そして翻訳家を目指す。私は鳴大で神沢君を待ってる。四年以内に受かってほしい。そうすれば、ぎりぎり、約束は守られるから。ま、もっとも、すべては神沢君が私のことを選んでくれたらの話なんだけどね」

「なにかと、申し訳ない」


「もう謝らないで。私は納得したから」

「高瀬は、本当にこの件に関して怒ってないのか?」


「怒ってないよ。というか、神沢君のこれまでのがんばりを知っていて怒る人なんか一人だって――」高瀬はそこではっとして前髪をかきあげた。「いや、一人だけいるね。あの人・・・だけは神沢君のこの選択に、きっと怒っている」


 ♯ ♯ ♯


 数日後、俺は本当にその人が怒っているかどうか確かめるべく、彼女が入院している病院へ向かった。手術からだいぶ時間も経って、そろそろ会話くらいはできるはずだった。


「よう」と俺は大決断を下した病室に入って言った。柏木はベッドの上でこちらに顔を向けて横になっていたが、俺に気づくと、にべもなくぷいっと体を反転させた。


「具合の方はどうだ?」と俺はその背中に声をかけた。「痛みはないか?」


 しばし待ってみたが返事はなかった。


 俺はベッドの近くまで移動し、話し続けた。

「この何日かで外はぐんと暖かくなったよ。雪解けも早いペースで進んでいる。春までもうちょっとだ」


 しばし待ってみたがやはり返事はなかった。

「なんだよ。いつもは喋るなって言ったって喋るくせに。なんとか言えよ」


 しばし待ってみたがもちろん返事はなかった。こりゃ怒ってるどころじゃないな、と思って俺は肩をすくめた。怒っているどころか激怒している。まずはなんとか口を開かせなきゃいけない。そのために、ちょっと刺激を与える物言いをしてみる。


「おいおい柏木。シカトを決めこむなんてあんまりじゃないか。いずみさんから聞いたんだろ? 手術費用の足りない分を俺が肩代わりしたこと。俺はおまえの命の恩人だぞ?」


 しばし待ってみると、頼んでない、と返ってきた。「誰も生かしてくれなんて悠介に頼んでない」


 ぶっきらぼうな口ぶりだが、ひとまず俺はほっとした。

「ようやく声を聞かせてくれたな。ずっと聞きたかった。もう二度と聞けないと思ったから。せっかくだから、顔もよく見せてくれ」


 しばし待ってみたが柏木は身じろぎひとつしなかった。それで俺はベッドを回り込んで顔を見ようとした。するとまた彼女は体を反転させて俺に背を向けた。元の場所に戻ってみてもやはり同じことの繰り返しだった。まるで動画を逆再生したみたいだった。


「わかったよ。背中を向けたままでいい。そのままでいいから、ちょっと話をしよう」

 俺はベッドのそばに椅子を置いてそこに腰を下ろした。

「まぁなんだ。俺のことなら心配すんな。鳴大には行きそびれたが、来年以降も受験するってことで今はもうすっかり心の整理がついている。それに高瀬にも正直に事情を説明して、こういう選択をしたことを納得してもらった。同じく月島や太陽にも。モップの奴も理由が理由だからきっとあの世で納得してくれているだろう」


「あたしは納得してない」小さい声ながらも、柏木はたしかにそう言った。「ぜんぜん納得してない。なんで助けちゃったかな。悠介がこの三年間夜遅くまで酔っ払いの相手してお金をこつこつ貯めていたのは、こんなことに使うためじゃないでしょ。自分の夢を叶えるためでしょ。選択するまでもないじゃない。あたしのことは放っておいて、鳴大の獣医学部に行けばよかったんだよ」


 俺は数日前の葛藤を思い出した。あの時もこうしてベッド脇の椅子に座っていた。

「あいにく、目の前の大事な人の命も救えないのに、何年か後に犬やら猫やらの命を救っている自分がどうしてもイメージできなかったんだ」


 柏木は相変わらず抑揚のない声で言葉を続けた。

「来年以降も鳴大を受けるって言うけど、お金はどうするわけ? また一から貯めるとなれば、いっぱい働かなきゃいけない。そしたらどうしたって受験勉強はおろそかになる。もう一度鳴大に受かって、獣医学部に六年通うっていうのは、そんなに簡単なことじゃないよ」


 それは100%完全に彼女の言う通りだった。たしかに簡単なことじゃない。とても難しいことだ。ここで「なんとかなる」と言ったところで、虚勢を張っていることくらい、その背中で見抜くに違いなかった。俺は何も言えなかった。


「これじゃあたしがになってる」と柏木は感情的になって言った。「あたし、前に言ったよね!? あたしのことを考えて鳴大に入らないなんてあたしが承知しない。悠介はせっかくいろんな壁を乗り越えて合格したんだから、胸を張って行きなさい。あたしは悠介がいちばん進みたい道に進んでいるのを見たい。あたしは自分がその壁になりたくない。そう、言ったよね!?」


「たしかに言った。ただおまえはこうも言った!」と俺も感情を剥き出しにして返した。「『あたしは生きていたい』って。ろくでもない人は多いし理不尽なことばかりのこの世界だけど、あたしはここで生きていたいって。あの言葉は嘘か? そうじゃないだろ。心から出た言葉だろ。大丈夫だ。俺はこの選択に後悔していない。むしろおまえを見殺しにした方が何倍も後悔しただろう。後悔しすぎて前に進めなかっただろう。そっちの方がよっぽど壁になっていた。今のおまえは壁になんかなっていない。生きていてくれている。声を聞かせてくれている。それだけで、俺は前に進める」


 しばし待ってみたが、返事はなかった。言うべきことは言ったので、俺は帰ることにした。椅子から立ち上がり、柏木の頭をそっと撫でた。


「この三年間のあいだ、ずっと秘密基地として学校に無断使用していた旧手芸部室を、明日みんなで掃除片付けすることになってる。なんせ三日後は卒業式だからな。俺たちもあの部屋から旅立ちだ。柏木。もし体調が良くて、医者の許可が下りたら、おまえも来い。みんな、おまえに会いたがってる」


 俺はそう告げると、彼女の頭から手を離して、歩き出した。病室から出ようとすると、背中に声がかかった。その声は聞き慣れた、いつもの柏木の声だった。


「悠介、ありがと」

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