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第92話 朴念仁

 その後も油洞院の退魔行に付き合わされ、あちこちの公家屋敷に赴く日々が続く。

 見かねた近藤が別の隊士をつけようともしたのだが、下賤の者が差し出口を叩くなと撥ね付けられてしまったらしい。沖田も土方も、新選組の中で評判の高い者たちである。それらを顎で使うことによって、己の権勢を誇っている様子に見えた。


 しかし、沖田も土方も単なる平隊士ではない。沖田は一番隊の組長として隊士を鍛え率いる仕事があるし、土方に至っては副長である。もうひとりの副長である山南敬助が土方の仕事をなるべく埋め合わせているが、すべて丸投げのままというわけにはいかない。余計な仕事が積み重なって、日に日に疲労の色が濃くなっていた。


 そんなわけで――


「くそっ、今日もこんな時間かよ……」

「さすがにこう毎日だと骨身にきますね……」

「お腹、好きマシタ……」


 屯所に帰ってきた土方、沖田、アーシアの三人はぼろぼろである。

 魔物が絡むとなればもしかすると坂本龍馬ネクロノミコンにつながる可能性もある。アーシアも座して見ているだけというわけにはいかず、律儀に同行していたのだ。


「今日も本当にお疲れさまでした。さ、足を洗いますね」

「毎日遅くまですまねえな」

「いえ、わたしが頂いた仕事ですので」


 土方の草鞋を脱がせ、たらいのぬるま湯で足を洗ってやっているのはミチだった。この少女は屯所に住み込みで働くようになり、帰りの遅い土方たちの世話をよくしていた。仕事だからと口にして入るが、到底それだけとは思えない献身的な尽くしぶりであった。


 三人が居間に上がると、囲炉裏の土鍋に雑炊が用意されている。

 油洞院に連れ回されている間はろくに食事ができないのだ。祇園や島原に毎日繰り出しているが、幇間の真似事をさせられて料理に箸をつける暇もない。ありあわせの雑炊と漬物だけの食事でも、今の土方たちにはごちそうだった。


「お、このたくわん、塩っ辛くてうめえなあ」

「壬生菜もシャキシャキでおいしいデス!」

「うーん、このしょっぱさ。身体に染みるなあ。源さんが漬けたやつかな?」


 おまけに漬物が美味い。

 源さんとは井上源三郎のことで、京にやってきた試衛館道場の面々で一番年嵩の男だった。まだ三十半ばだと言うのにじじむさく、趣味は漬物である。これでもかと塩をきかせるので薄味を好む都人にはぎょっとされていたが、土方や沖田はこの味に馴染んでいる。


「よかった。お口にあったようで」

「おや、ミチさん、あんたが漬けたのかい?」

「はい、井上様に教わって。びっくりするくらい塩を入れるので心配でしたが……」

「オレたちゃ汗をかくからな。これくらい塩辛え方がちょうどいいんだよ」


 土方はぼりっとかじり、それだけで雑炊を一杯かき込んでお代わりをする。塩辛いおかずに山盛りの米。これが江戸っ子の食事の基本だった。


「そうだ、梅がなったら梅干しも習うといい。源さんは梅干しも達人なんだぜ」

「まあ、それは楽しみです」

「トシさんも気が早いなあ。梅がなるのはまだ二月ふたつき三月みつきも先だよ。ミチさんがそれまで働いてくれてるかもわかんないのに」

「あ、そうだったな。すまねえすまねえ。あんたは行儀見習いで京に上ってきたんだったか。いい奉公先が見つかるといいな」

「いえ、わたしは……」


 ミチは白い頬をぽっと紅潮させて顔を伏せた。

 そしてその瞳は土方に向かってチラチラと向いていた。


(あっ、これは……)


 トシさんに惚れちゃったか、と沖田は思った。

 何度も見かけた光景である。撃剣試合の見物は江戸では庶民の娯楽の一部になっており、他流試合に積極的な天然理心流でも同様だった。そして見物人の女が土方を見てしばしばこういう表情を浮かべるのである。

 沖田にも負けず劣らず同種の視線が向けられていたのだが、当人は気づいていない。他人事であれば人一倍の注意力を発揮する癖に、自分のこととなると途端に鈍感になる男であった。


「こうも怪事が続くようじゃ、雇い先もなかなか見つかんねえか。ま、オレとしちゃ長くいてくれた方がありがてえがな」


 しかし、土方は土方でミチの好意に気がついていない。女は口説くもので好かれるものではない……という意識がなぜか土方の中にはある。水茶屋や遊郭の女相手に駆け引きするのは楽しいのだが、それにはどこか勝負事を楽しんでいるようなところがあった。

 まあ、色々と並べ立てたが、沖田にせよ土方にせよ根っこが朴念仁なのである。


「それにしても、何だって妖怪だのなんだのがバカスカわくようになったんだ? バタバタしちまって結局何の説明も聞けてねえが……」

「うーん、それについては仮説となりマスガ……」


 アーシアが茶碗を置いて口を開いた。

 食事を中断したわけではない。茶碗四杯を平らげて満足したのである。


「まず、二条城で直した結界、これはちゃんと機能をしてイマス」


 アーシアが言ったのは御所を中心とした五芒星結界のことである。都の霊的守護を司るこの結界は一時は破られる寸前まで行ったが、沖田たち新選組の活躍によって再構築されている。


「それなら、なんで妖怪なんて出るのさ?」


 雑炊の中に目ざとく見つけた肉の欠片をゆっくりと味わいながら沖田が質問した。


「外部からの侵入はまず考えられないデス。何者かが内側から発生させているのは間違いないカト。でも、結界の内側でそうした魔術を成功させるのは至難デス。結界の仕組みを知り尽くした術者の仕業だと思いマス」

「例えば、あのロバート・プリュインみたいな?」


 強力な魔術師と聞いて真っ先に思い浮かべたのは横浜で戦ったプリュインである。種を明かせば無数の環形動物を操る術だったのだが、並の使い手ではないことは門外漢の沖田でも理解できていた。

 しかし、アーシアは「ウーン」と細い眉の間にしわを寄せ、首を左右に振った。


「おそらくですが、プリュインではないと思いマス。東洋と西洋とでは術式の組み方が違うのデス。プリュインがどんなに強力な魔術師だったとしても、系統の違う結界の抜け穴を探すのはむずかしいと思いマス」

「とすると、下手人は東洋の魔術に詳しい者ってこと?」

「ハイ、あくまでも予想デスガ……」

「蘆屋道満、か」


 沖田の脳裏に浮かんだのはやはり横浜で遭遇した蘆屋道満を名乗る少女である。呪符一枚で人を掴んで飛べるほどの巨大な怪鳥を創り出せる魔術の使い手だ。容疑者としては筆頭に上がるだろう。

 だが、アーシアはなおも首を「ウーン」と捻っている。


「何か引っかかるの?」

「ハイ、〈ネクロノミコン〉の残滓がまったく感じられないのがどうしテモ……」


 アーシアによれば〈ネクロノミコン〉のような強力な魔術書は、近くにあるだけで魔術師に影響を与えるものらしい。坂本龍馬の仲間である蘆屋道満がこの件に関わっていたとして、その気配を完全に消し去ることは可能なのだろうか。


「ま、今は考えても仕方がねえってこったな。明日も早いんだ。寝るぞ寝るぞ」


 土方のその一言で話は切り上げられ、沖田たちは解散してそれぞれの寝所に向かうのだった。

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