『自由になった聖女様』アン・ミカエル・ゴーン著
* * *
星降る国の最果ての地に、優れた聖女様がおりました。
聖女様は『グラシア』という名の不思議なちからを持っていて、傷ついた者たちに癒しの加護を与えることができました。
聖女様が暮らす場所は月の光が当たらぬほど背高い岩山に囲まれていて、人間たちが近寄ることはできません。
太陽が支配する昼間は、太陽の子たちの傷を。
宵闇が支配する夜間は、闇の子たちの病を。
聖女様は、命じられるままに治していました。
太陽と宵闇は、ご褒美として、聖女様に煌めく宝石を与えました。
聖女様は寂しそうに、まばゆい宝石の山を見つめました。
聖女様は、その真ん中にぽつんとひとり、座っているのです。
月の綺麗な夜、東の土地からひとりの旅人がやってきました。
旅人の男は魔法が使えましたので、岩山を砕き、聖女様が暮らす神殿にやってくると、聖女様に言いました。
「私と一緒に行きませんか。岩山の向こうには、広い世界とあなたを求める多くの人間たちがいます。けれど人間たちは貧しくて、あなたに与えるものを何も持たない。それでも彼らには、あなたが必要なのだ」と。
聖女様は迷いませんでした。
なぜなら聖女様は、自由がほしかったのです。
どんなにまばゆい宝石よりも、
ただ、自由が──。
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『お前のせいだ』
閉ざされた暗闇のなかで赤黒い光のようなものが明滅している。
一度まばたきをしたその刹那、視線を下げると、遠くにあったその赤黒いものが足元でうごめいていた。
────っ
『お前のせいだ……お前がわたしたちを見捨てたから』
輪郭のぼやけた人間の顔がユフィリアの足元に浮かび上がり、恨念を滲ませたおぞましい声をあげた。
「ちがう! 見捨てたんじゃない……知らなかったんだ」
──そう……幼いあの頃、私は何もわかってなかった。だから、あなたたちは亡くなった。
必死で首を振りながらあとずさるが、足元に転がる何かにつまづいた。
ドレスの裾越しに見遣ればそれは人間の屍で、周囲を見渡せばいくつもの屍が黒い地表に点々と朽ち果てている。老若男女問わないそれらはみんな、哀しげに固く目を閉じていた。
「助けてあげられなくて、ごめんね……」
怖くなって駆け出すけれど足元がおぼつかず、ユフィリアが纏うドレスの裾が邪魔になって屍につまづいてしまう。
何度も転びそうになりながらも必死で闇の中を進んでいくと、突然視界が開けた。
繊細な装飾がなされた柱が立ち並ぶその場所には見覚えがある。
けれど──はっきりとは思い出せない。
顔をあげると、白いもやのような風貌をした人とすれ違った。
見れば、若い女官や侍従……大勢の人々が周囲を右往左往している。
ユフィリアはどうやら混乱のなかにいて、顔はよく見えないけれど彼らがひどく慌てているのがわかる。
混乱の渦の中で呆然と立ちすくんでいると、今度はひときわ大きな人影がユフィリアの正面に現れた。
「お
白いもやが集まったようなその人物の顔はぼやけているが、不思議な感覚でそれがわかる。ただその男の手に長剣が握られているのがはっきりと見えた。
ユフィリアに向けてまっすくに剣を構える男の影が、目の前に迫り来る。
──刺される!
無意識に両眼を閉じようとしたその瞬間。
視界の中に飛び込んできた人影がユフィリアを庇うようにして立ちはだかった。
ズサッ────
鈍い音とともに大きな身体が目の前にくずおれる。
その人影は紛れもなく、ユフィリアの愛する夫であった。
「ユフィリア」
かすれた夫の声が耳に届けば、それまでの喧騒が嘘のように、辺りがしんと鎮まりかえる。
義兄と周囲にいた者たちは消え失せていて、元の暗闇に戻った空間には目の前にぐったりと横たわる夫とユフィリアの他に──何もなかった。
夫が「ぐふっ」と咳き込めば、大量に吐き出された赤黒い血液が彼の礼服の胸元を汚す。
「こんな傷、私がすぐに治してあげる……知ってるでしょ、私のグラシアはとても強力なのよ?……だからダメっ、逝っちゃダメ……!」
王族の衣服を纏った青年は腹を貫かれ、すでに虫の息であった。
ユフィリアは聖女が持つ治癒の力を必死で注ぎ込みながら、輪郭のぼやけた青年の顔を涙目で見下ろす。
そんなユフィリアの頬を指先で撫でながら、断末魔の言葉を残して、青年が目を閉じたのがわかった。
「ユフィリア……愛している」
亡骸となった夫の頭部を胸元に抱え込むように抱きしめる。
ユフィリアの泣き叫ぶ声が、漆黒の闇の中に溶けた。
じわじわと目頭が熱くなって、涙が頬を零れ落ちる。
ずっと聴きたかった「愛してる」の言葉が、こんなに哀しく響くなんて──。
「なぜ……なの?」
──どうして、
「私が、あなたのそばにいた……から?」
指先で夫の頬に触れれば、まだあたたかかった。
涙で濡れそぼった長い睫毛を伏せると、夫の額にそっとくちづけを落とす。
「私、まだ言ってない……」
──あなたを愛してるって──。