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74話:幽霊のお出迎え

 キュッリッキが座り込んでいた場所には、小さな赤い血だまりが点々といくつも出来ていた。それを痛ましく見つめ、ベルトルドはスッと立ち上がる。

 床から放り出されたメルヴィンを助けたい一心で、翼を広げたキュッリッキの必死さを思うと胸が痛んだ。

 考えるまでもなく、身体がそう動いてしまった。そしてアイオン族としての本能が、翼を広げさせたのだ。


(片方しかない翼のことなど、念頭になかったのだろう。空を飛ぶことができないことも。召喚士であることもまた、念頭になかった。愛するものを助けなければ、それだけだったんだ)


 ベルトルドはグッと拳を握ると、困惑したように立ったままのメルヴィンの顔を、怒りを込めて激しく殴りつけた。

 突然のことにメルヴィンは無抵抗に吹っ飛ばされ、床を滑り倒れ込んだ。その衝撃の様子に、皆我にかえったように顔を上げる。

 口の端を切ったのか、血を流して頬を抑えるメルヴィンを、カーティスが慌てたように駆け寄り助け起こした。


(この男はいじらしいまでの恋心を向けられながら、少しも気づかない。こんな男のために、リッキーは心の傷を自ら仲間たちに晒してしまったのだ)


 ベルトルドにとって、それは耐え難いことだ。

 Encounter Gullveig Systemを止めることが遅れたのは自分の責任だし、メルヴィンがキュッリッキを庇って床から放り出されたことは判った。

 だがやるせなく、どうしようもない怒りがベルトルドから冷静さを失わせていた。

 愛する少女が、こんな形で自らの傷を見せることになるとは。


(いつか自分の口から、自身のことを話すと心に決めていたことは知っている。だが、今も心が深く傷ついているリッキーが、どういうタイミングで切り出すか惑っていることも判っていた。最良の形で打ち明けられたらいいと、密かに応援していた。それなのに、最悪の形でさらけ出す羽目になってしまうなんて…)

(もうそのくらいになさい、ベル)


 諌めるような口調のリュリュの声が、静かに頭に入り込んできた。


(あーたのその行動は、ただの八つ当たり。そのくらいで気を済ませなさい)

(………)


 指摘されるまでもなく判っている。だが、八つ当たりでもなんでも、怒りの矛先がどうしてもメルヴィンに向いてしまうのだ。


(今度のことで一番辛いのは小娘のほうでしょ。小娘を慰める役をアルカネットに任せっきりでいいわけ?)

(いいわけあるか!!)

(だったらいつまでも子供みたいに拗ねてないで、ライオンの連中を連れて、動力部へ行きなさいな。部屋の外でシ・アティウスが待っているから、案内してもらいなさい)

(………判った)

(終戦宣言を出したとは言え、開戦してすぐ終戦じゃ、現場の兵士たちも気が収まらないでしょう。放送を見ても、それでも時間が経てば煮えくり返る者は出てくるわ。双方が完全に撤収するまでは混乱もしそうだから、アタシは将軍と一緒に指揮に戻る。ちょっと飛ばして)

(ん…)


 ベルトルドは意識を凝らすと、ドールグスラシルにいるリュリュを、ソレル王国首都アルイールへむけて飛ばした。

 リュリュが言うように、今回のことで一番傷ついて辛いのはキュッリッキだ。そして、用事を済ませて早く彼女のそばに行ってやりたい。

 怒りを静めるために大きく息を吐き出すと、ベルトルドは困惑するように自分を見つめているライオン傭兵団に顔を向けた。


「これから動力部へ行くぞ。お前らついてこい」




 闘技場を出ると、シ・アティウスが小さく会釈した。


「ご案内します」

「おう」


 ベルトルドは気持ちを切り替えるように、フンッと鼻息を一つ吐き出す。その様子にシ・アティウスは小さく顎をひいた。


「お嬢様は、災難でしたね」

「うん」


 2人はそれきり黙り込むと、動力部へむけて歩き出した。その後ろを黙々とライオン傭兵団が続く。

 ベルトルドが一緒にいるということもあるが、珍しいほどライオン傭兵団は無口だった。念話で雑談も一切せず、ただ黙って歩いていた。

 普段だったら冗談の一つも言って、「無駄口叩くな!」とベルトルドから叱責されるものだが、そんな気が起きないほど打ちのめされている。そしてベルトルドもあまり長すぎる沈黙は苦手なので、むずむずして叫びだすが、やはり黙っていた。

 この重苦しい状況に耐え切れなくなって、真っ先に口を開いたのはシ・アティウスだ。


「息のあったソレル王国兵によると、ソレル国王らがこの遺跡に入り込んでから、動力部で奇妙な異変が起きはじめたそうです。怖くて放置してたらしいが、この遺跡はまだ未完成なので、装置を運び込むのにいつまでも異変状態だと困ります。何とかして欲しいのですよ」

「……どんな異変なんですかい?」


 唐突に話し始めたシ・アティウスに、やや間を置いてギャリーがぼそりと反応する。


「幽霊が出るそうですよ」


 一拍おいて「ん?」といった表情で、ライオン傭兵団全員が顔を上げる。その様子にシ・アティウスが肩ごしに振り向いた。


「もしかして、男の幽霊です?」

「おや、ご存知でしたか」


 ギャリーとルーファスは顔を見合わせた。


「リッキーを誘拐したっていう幽霊だな」


 ギクッという反応が後方からして、ベルトルドは薄笑いを浮かべた。

 なんで筒抜けてるんだ、という空気が憚ることなく漂う。


「さっきヴァルトの記憶で視た。あとでしっかり説明してもらおうか、この馬鹿者どもが」


 ギュッと心臓を握りつぶすようなベルトルドの底冷えする威圧感に、ライオン傭兵団は竦み上がった。そしてヴァルトに小突いたり舌打ちしたりするみんなの反応がおかしくて、シ・アティウスは小さく笑みを浮かべた。

 暗く沈んでいる彼らは似合わない、と思っていたからだ。




 1時間も歩き、ようやく動力部前へ到着した頃には、みんな疲れきっていた。なにせ道中同じ白い通路の風景しかなく、とくにライオン傭兵団はEncounter Gullveig Systemから逃げ回っていたのだ。視覚的に変化がないとそれだけでも気疲れするし、加えて溜まった疲れとさっきの出来事で、より身体は重かった。

 シ・アティウスはそうでもなかったが、ベルトルドは妙にうんざりしたように疲労感を漂わせている。昼寝もしてリフレッシュしただろうに、とシ・アティウスは胸中で呟いた。


「こんだけ疲れるんだったら、空間転移したほうがまだよかった……」

「普段から〈才能〉スキルに頼りすぎて運動不足ですね。――もういい歳ですから」


 さらりと核心をつかれて、カチンとベルトルドがいきり立つ。


「うるさいぞ能面エロツラ!! お前だって同い年だろ! 俺の場合は寝不足だ寝不足!」


 昼寝していたという事実は棚に上げ、子供のような癇癪を起こすベルトルドに、ふうっと露骨なため息を吐き出す。シ・アティウスは動力部の扉を押し開いた。


「こんの」

「はい、ここですよ」


 握り拳を作ってふるふる怒るベルトルドをスルーするシ・アティウスの、そのあまりに天晴れな態度に、妙に感動を覚えるライオン傭兵団だった。

 重い音をたて内側に開かれた巨大な扉の向こうは薄暗かったが、何もないだだっ広い空間が広がっていた。そしてその中央に、身体を光で包む一人の青年が立って皆を出迎えた。


「ようこそ、招かれざる者たち」


 先頭に立って中へ入ったベルトルドは、腕を組んで青年を睥睨すると、不快そうに眉を寄せた。


「お前か、俺の大事な大事なリッキーを拐かしたゲス野郎は」

「初対面の相手をいきなりゲス呼ばわりとか、酷いなあ」


 青年は苦笑を浮かべて、首をすくめながら頭を掻く。

 ベルトルドの出方は予想の範疇外だったのか、青年は若干驚いていた。しかしその態度もナメていると感じたのか、ベルトルドはぴくりと眉をひくつかせる。


「黙れ、ただの残留思念の分際が! 俺の大事なリッキーと、俺の玩具を好き放題遊びやがって!」

「あら、残留思念ってバレてる」


 青年はびっくりしたように瞬いた。そして改めてベルトルドに向き直ると、洗練された仕草で片腕を胸にあて一礼する。


「ボクの名はヒューゴ。ヒューゴ・リウハラといいます。あらためてお初にお目にかかる、偉そうなヒト」

「残留思念の名などに興味はないわっ!」


 ちゃぶ台返しの勢いで、どこまでも居丈高に言い切るベルトルドに、ヒューゴは肩をすくめた。「礼儀正しく挨拶して、何故キレるのか」と。

 偉そうなヒト、という表現に、後ろの方でライオン傭兵団が神妙に深く深く頷いた。その無礼な気配を捉え、ベルトルドは噛み付きそうな目で彼らをジロリと睨む。

 この場にアルカネットでもいれば、呆れたような溜息の一つもつきそうだが、代わりにシ・アティウスが嫌味ったらしく溜息をついた。

 目の前のそんな光景を見て、ヒューゴは小さく微笑んだ。


「ヤルヴィレフト王家の血の波動が消えている。殺ったのは、キミだね?」


 一瞬ベルトルドは「ん?」と小首をかしげたが、すぐに「ああ」とめんどくさげに頷いた。


「あのジジイの先祖のことか。奴なら公開処刑してやったぞ」


 手を首のところで一閃して、撥ねたことを暗に伝える。


「そうですか…、それは一安心だ。だけど、ヤルヴィレフト王家とも関係のなさそうな貴方が、このフリングホルニになんの御用でしょうか?」


 ベルトルドは隣に首を向けると、


「10年前からこんなのいたのか? 報告にはあがってきてないが」

「いえ。先ほど言ったように、ソレル国王がこの遺跡に入り込んでから、それを感知して目覚めたようです」


 目の前の青年に目を向けたまま、シ・アティウスは淡々と答えた。

 自ら残留思念と認めたのだから、きっとそうなのだろう。ソレル国王の遠い祖先、ヤルヴィレフト王家ゆかりの者。

 遺跡にはトラップや幽霊などといった演出道具はつきものなので、たいして感動も興味もそそられなかったが、目の前の青年はシ・アティウスの興味を強く惹いていた。


「ヤルヴィレフト王家の縁者がこの遺跡に入り込むことを、好ましく思っていなかったのなら、何故直接ソレル国王を排除しなかったのです?」


 表情の読み取れないシ・アティウスに、「それは出来なかったからです」とヒューゴは微笑みを絶やさず小さく肩をすくめて見せた。


「10年前にこのふねが発見され、あなた方がシステムを乗っ取ってしまったからです。そこの偉そうな御仁が自らを生体キーとして登録して、メインシステムを支配したから、ボクはシステムに介入できなくなった。ヤルヴィレフト王家の血を継ぐ者がこの艦に踏み込んだ時に、目覚めるようにしていたのだけど。それにドールグスラシルに入られたら手が出せない」

「なるほど。肉体を持たないあなたには、出来る手立てが少ないわけですか」

「ご明察」


 淡々と語るシ・アティウスに、ヒューゴは苦笑してみせた。


「だが、キュッリッキ嬢を拐かしたように、攫うことができるのなら、それで始末をつければよかったのではないか?」


 この問には、どこか諦めにも似た表情を浮かべて、ヒューゴは小さく息をついた。


「…ボクたち神王国ソレルに仕える騎士アピストリたちは、騎士の称号を賜ると同時に、心臓に”ヴァールの証”を打ち込まれる。永遠にヤルヴィレフト王家に逆らえない、という呪いのようなものだね。”ヴァールの証”は騎士の誓いに置き換えられる。思念体や魂になっても、決してヤルヴィレフト王家に連なる者には手を出せない。例えそれが末端の分家筋であったとしても、王家の遺伝子を持つ者には全て手が出せないんだ。情けない話だけど」


 それは面白そうだなという表情を、ベルトルドは僅かに口の端に浮かべた。”ヴァールの証”というものは、この時代には伝えられていない秘儀だろう。シ・アティウスも知らないようだった。


「さてどうしようか考えている間に、キミが始末してくれた。そのことには礼を言わせてもらうよ」

「だったら心の底から大感謝しろ!」


 ふんぞり返って威張るベルトルドに、シ・アティウスとヒューゴの乾いた視線が投げかけられる。


「それに尊敬し奉り、ありがたく思いながら即刻あの世へ逝け。このふねは俺のものだからな!」

「本当に傲岸不遜ですねあなたは。だがここに手を出すのは止めたほうがいい、このふねがどんなものか判っているのであれば」


 顎を引いて真剣な眼差しになり、ヒューゴはベルトルドを見つめる。


「このふねはまだ未完成だ。起動装置が運び込まれていないから。そして起動装置を運び込むことも止めてほしい」

「フンッ! 止めるくらいなら初めからこんなところまで足を運ぶか馬鹿者」


 ヒューゴは苦虫を噛み潰したように、口元を小さく歪める。


「ヤルヴィレフトに連なる者以外が、この艦の意味を理解出来るとは思わなかった。――キミたちは、このふねがどういう目的で建造されたものか、知っていて使うと言い張るんだね?」

「当然だ」


 淀みなく挑戦的なベルトルドの笑みに、ヒューゴは目を眇めた。


「システムを支配しても、この動力部に装置が運び込まれない限り、この艦は動かないし本来の姿も現さない。――ここは最後の砦、何が何でも守るよ」


 スッと笑みの消えた顔で、ヒューゴはベルトルドをじっと見据えた。


「1万年も長々とご苦労なことだが、俺はとっととお前を片付けてリッキーの所へ帰らねばならん」


 ベルトルドは肩ごしにライオン傭兵団へ視線を向け、鋭い眼光を放った。


「ようやくお前たちの出番だ。しっかり仕事しろ」


 そう言われましても? といった表情でライオン傭兵団たちは困惑していた。


「残留思念って、どうやって始末すればいいんです?」


 ザカリーが恐る恐る片手を上げて質問を投げかける。


「あいにく祓魔師エクソシストでもないし、神父や司祭でもないし、霊媒師でもないし、どうすれば…」


 シビルはぽてぽて尻尾を揺らしながら、本気で悩みだした。


「ニンニクと聖水かけると成仏するんじゃね」


 ギャリーが胡散臭げに言うと、


「やっぱぁ、太陽の光じゃないとだめぽくなぁ~い?」


 おどけてみせながらマリオンが続けた。


「ニンニクは擦りおろしと刻み、どっちが効果的なのー?」


 ハーマンが神妙に言うと、「臭うからそのままでいいだろ」とギャリーは肩をすくめた。


「搾り汁のほうが効き目が強そうだ……だがボクは搾る役は遠慮する」

「私も遠慮します」


 タルコットとカーティスが真顔で辞退した。

 次から次へとしょうもない発言が飛び交い、ベルトルドのこめかみに血管が数本浮き出た。


「俺が判るかボケエぇぇ!! 今すぐ殺らんと俺がキサマらをぶっ殺す!!」


 怒りのオーラが弾け、広間に轟く怒号が浴びせられた。

 あまりにも激しい剣幕に慄いて、あたふたとベルトルドの前に飛び出たライオン傭兵団に、


「あなた方も苦労しますね」


 そう無表情にシ・アティウスから労られて、みんな思い思い引きつった。


 ――判ってるならナントカしてくれ。


「あっはははは、面白い人たちだね」

「そう笑わないでください。お金と自分の命は大事です」


 ちなみに次点は愛です。と、キリッとカーティスが言い切る。その様子にヒューゴは再び笑った。


「さて、ボクの倒し方は判ったかな? こう見えてボクは強いんだよ。なんせユリディス付きの騎士アピストリに選ばれたくらいだからね」


 ヒューゴが身体を覆っていた光を払うように手を薙ぐ。

 光の粒子が弾けて霧散すると、豪奢な銀色の鎧が輝き、ふわりとマントが舞い上がった。そして腰に佩いていた剣をゆっくりと抜き放ち、剣先をライオン傭兵団に向けた。


「我が剣グラムがお相手いたす」



* * *



 アルカネットは飛ばされた場所が、ハーメンリンナのやしきの玄関前と判ってホッと息をついた。そして使用人たちが気づいて出てくる前に、キュッリッキの翼を隠さなければならなかった。


「どうせなら、リッキーさんの部屋の中なら良かったんですが…」


 腕の中で小さく身を縮こませているキュッリッキを覗き込むように見ると、痛々しいほど消沈した表情で、小刻みに震えていた。


「リッキーさん、もう大丈夫ですよ。翼をしまってください」


 キュッリッキはゆるゆると顔を上げると、見開いた目からポロポロと涙をこぼし始めた。その様子を見て、まだキュッリッキの心が混乱していることが判り、アルカネットは安心させるように優しく微笑みかけて、額にそっとキスをした。


「しまい方は、覚えていますか?」


 ゆっくり目を瞬き、キュッリッキは小さく頷く。そして翼は儚い幻想のように霧散し、空気に溶けるようにして消えていった。

 か細い背から翼が消えていることを確認すると、両手がふさがっているため魔法で風を生んで玄関の扉を開いた。

 何事かと奥から飛び出してきたリトヴァとセヴェリは、アルカネットとキュッリッキの姿を見て目を丸くした。


「お、おかえりなさいませ、アルカネット様、お嬢様」

「ご予定より随分とお早いお戻りでしたね」

「色々あったのですよ。それより、リッキーさんの部屋は整っていますか?」

「はい。いつお戻りになられてもいいようにしてあります」

「結構。温かいお茶を持ってきてください。それと、至急ヴィヒトリ先生を呼んでください。何をおいても最優先でくるように伝えなさい、これはベルトルド様からのご命令です」

「承りました」


 リトヴァとセヴェリは一礼すると、直ぐにその場を離れた。


「さあ、部屋に行きましょうね」


 腕の中のキュッリッキに優しく言うと、キュッリッキはアルカネットの肩に頭をもたれさせた。




 数日ぶりに戻ってきた自分の部屋に、キュッリッキはひどく安堵していた。

 思えばここはベルトルドのやしきであって、この部屋はキュッリッキにあてがわれただけである。いわば客間のようなものだ。しかしナルバ山で怪我をしてから、この部屋でずっと過ごしてきた。エルダー街のアジトで過ごした時間より長い。

 この部屋は、もう自分の部屋だ。そう思えてならない。

 ベッドに寝かされたキュッリッキは、アルカネットの軍服を掴もうとして、腕に走った痛みに顔を歪めた。

 すでに血は止まっていたが、両方の二の腕にいくつか抉ったような傷がある。そして手の先を見ると、爪と指先に血がついて乾いていた。

 自分でつけた傷だと思い出し、キュッリッキは表情を曇らせた。


「痛みますか?」


 濡れタオルを手にしたアルカネットが、心配そうに見つめながらベッド脇にある椅子に腰を下ろした。


「ちょっと滲みるように痛むかな…」

「もうすぐヴィヒトリ先生がきますから、手当していただきましょうね」


 アルカネットは柔らかく微笑みかけ、そっとキュッリッキの手を取ると、指先や爪にこびりついた血をタオルで優しく拭ってくれた。それをぼんやりと見つめ、二の腕の傷よりも、心が鈍く痛むのを感じていた。


(とうとうバレちゃった……)


 メルヴィンの身体が床から投げ出されたとき、無我夢中で飛び出した。


(あの手を取らないと、一生後悔する。そう思ったから)


 もっと冷静でいれば、フェンリルで助けにいけばよかっただけなのに、反射的に身体がそう動いてしまったのだ。メルヴィンが危ない、そう思った瞬間、身体が飛び出し、そして翼を広げてしまった。どう助ければいいかなど考えていなかったのだ。

 左側のちぎれた残骸のような翼のせいで、キュッリッキはろくに翼を広げたことがなかった。幼児期に鏡の前で何度も確かめたときくらいで、飛べないのだから必要ないと翼の存在すら忘れるように努めていた。

 他人に見られれば蔑みの目を向けられ、両親に捨てられたことも、同族に忌まれたことも思い出してしまうから。

 出来損ないの自分を見られるのは凄く嫌だ。恥ずかしいと思う反面、辛くもあった。消えてしまいたくなるくらいに。


(みんな、どう思ったのかな…ヴァルトとザカリーはもとから知っていた。でもほかのみんなは? そしてメルヴィンはどう思ったの?)


 メルヴィンがどう思ったのかが、もっとも気になっている。

 キュッリッキの翼を見て、絶句したように何も言わなかったメルヴィン。


(きっと、みっともないと思ったんだ)


 不格好だと感じただろう、片方しか翼がなくて。飛べない、情けない姿だと。だから何も言わなかったのだ。そう思うと、心がチクリ、チクリと痛み出す。

 飛べもしないのに飛び出した挙句、翼だけ広げて落下して、最後はフェンリルを呼んで助かった。初めからそうしていれば、ヴァルトまで巻き込むことはなかったし、誰にも見られずに済んだのに。

 やはり、自分は出来損ないなのだ。同族から見捨てられたほどに。


「リッキーさん……」


 アルカネットがそっと涙を拭ってくれて、それで我にかえったキュッリッキは、慰めを求めてアルカネットに向けて両腕を伸ばした。

 ベルトルドと同じように、父親のような存在であるアルカネット。今はとにかく甘えたくてしょうがなかった。

 アルカネットはたまらずキュッリッキをギュッと抱きしめると、そのままベッドに倒れ込んだ。

 ベッドに押し付けるような格好でキュッリッキを抱きしめたまま、胸の中で嗚咽をもらす少女の背を、アルカネットは何度も優しく撫でてやった。

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