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118話:アルカネット狂乱

 翌朝キュッリッキは目を覚ますと、左右に寝ていた筈のベルトルドとアルカネットがいないので首をかしげた。サイドテーブルに置いてある時計を見ると、まだ朝の6時を回ったところだ。

 アルカネットが早起きをしているのは不思議に思わないが、ベルトルドが寝ていないことには驚いた。


「今日は雨かな……」


 お気持ちを呟きキュッリッキは起き上がると、モソモソとベッドから出る。そしてフェンリルたちの寝ているソファのそばにあるテーブルの上を見て、書類が消えているのに気がついた。


「お仕事してるのかな。ベルトルドさんも起きてるのはビックリだよ」


 いつもあれだけ派手に起こしても起きないベルトルドが、自分から起きているのは本当に驚くばかりだ。


「さーて、顔洗ってこよ」




 着替えを済ませると、キュッリッキは部屋を出た。


「あ、リトヴァさん、おはよう~」

「おはようございます、お嬢様」

「ベルトルドさんって、もう起きてるの?」

「はい。書斎でアルカネット様とお仕事をなさっていたようです。先ほど終えられ、ご自分のお部屋に戻られていると思いますよ」

「おお…やっぱベルトルドさん、ちゃんと起きられたんだ……」


 ベルトルドの目覚めの悪さをしみじみ判っている2人は、「毎日こうならいいのに」という気持ちを乗せたため息をついた。

 キュッリッキはふと、リトヴァが手にしているものに目を向けた。


「アルカネット様の手袋でございます。玄関ホールで脱がれたのでしょう、お忘れになっていたので、今からお届けに行くところです」

「アタシが届けてくる!」

「あら、そうですか? では、お願いいたします」

「任せて!」


 本来なら、このやしきの令嬢であるキュッリッキに、おつかいなどさせてはいけない。しかしキュッリッキが行ったほうが喜ぶだろうことを心得ているので、あえてリトヴァはキュッリッキに任せた。

 リトヴァから手袋を受け取ると、キュッリッキはアルカネットの部屋へ向かった。


 アルカネットの部屋も東棟にある。とにかく大きく広いやしきなので、リトヴァが見えなくなると、キュッリッキは走り出した。やしきの中で走っていると叱られるからである。

 部屋の前に着いて、キュッリッキは扉をノックした。

 暫く待っても返事がなく、ちょっと考え込み、そして扉をそっと開けてみる。


「アルカネットさん、いるー?」


 部屋の中に入ると、カーテンは全て開けられて、室内は明るい陽光で満ちている。ベッドには寝た形跡がなく、誰もいなかった。


「そいえば、アルカネットさんの部屋に入ったの初めてかも」


 ベルトルドの部屋へは何度も入ったことがあるが、アルカネットの部屋は初めてだ。

 テーブルの上に手袋を置くと、キュッリッキはベッドのサイドテーブルの写真立てに気がついた。

 不思議とそれに興味を覚え、近づいて写真立てを手に取ってみる。そしてその写真を見て、思わず目を見張った。


「あれ? アタシ??」


 小さく声を上げたところで、人の気配を感じて振り向いた。

 部屋の入り口に、アルカネットが立っていた。


「アルカネットさん」


 キュッリッキはアルカネットに気づいて、にっこりと声をかける。しかしアルカネットは無言だった。

 その表情は、怒っているわけでもない。にこりと微笑んでいるわけでもない。かといって、無表情というわけでもないのだ。穏やかな風貌には 、しかしどれにも当てはまらない、何とも表現しがたい表情が浮かんでいた。

 返事が返ってこないので、勝手に部屋へ入ったことを怒っているのかもしれない。そう思ったキュッリッキは、写真立てをサイドテーブルに戻して、小さな声で「ごめんなさい」と言った。それでもアルカネットは無言で、じっとキュッリッキを見つめているだけだ。


(何も言ってくれないと、なんか、気まずい……)


 部屋へ勝手に入っただけなので、言い訳もなにも思いつかない。でも、ああして無言を通されると、なにか気に障ったことでもしたのではないか? そう思えて身の置き所に迷う。


(あ、そうだ!)


 部屋へ来た目的を思い出す。


「あのね、アルカネットさん玄関へ手袋忘れたでしょ、持ってきたの。テーブルの上に置いといたからね」


 部屋へきた目的を言えば、きっと反応があるだろう。と思いつくも、やはりアルカネットは無言だった。

 他に話題はないだろうかと、キュッリッキは必死に考えた。


「そ、そいえば、ベルトルドさんも起きてるんだね! 毎日ちゃんと早く起きるといいのにね」


 無反応。


(これもダメか…)


 さらりと黙殺されている気がする。


(うーん、うーん……)


 困り果てて、ふとキュッリッキはサイドテーブルに戻した写真立てを手にとった。


「この写真に写ってるのって、アタシじゃないよね? ものすごくアタシに似てるから、勘違いしちゃった」


 自分の顔の横に、写真立てを並べるように持つ。

 少し古ぼけた感じの写真には、青い空と海を背景に、金髪の少女が笑顔で写っていた。愛くるしいまでの無邪気なその表情、あどけなさを残した美しい顔立ち。瞳の色は違うが、キュッリッキに瓜二つなのだ。


「アタシのそっくりさんなんだね」


 すると、アルカネットの表情に悲しい色が浮かび、よろけるように歩き出した。まっすぐキュッリッキを目指して。

 アルカネットは歩きながらキュッリッキに向けて手を伸ばすと、細い手首を掴んで自分の方へ、グイっと強引に引き寄せた。


「ア、アルカネットさん!?」


 いきなりのことに驚いて、キュッリッキは身を固くしてアルカネットを見上げた。


「リューディア…」


 そう言って、キュッリッキを強く抱きしめた。全身全霊を込めるように、その細い身体をしっかりと抱きしめ、アルカネットは身を震わせた。


「もう二度と、私を一人にしないでください」

「ア、アタシ、ち、違うよっ! キュッリッキだよアルカネットさん」


 まるで身動きがとれず、キツく抱きしめられる腕の中で、キュッリッキはアルカネットに呼びかけた。

 いつもと違って、物凄く強く抱きしめてくる。


「あのね、すごく苦しいの。お願いだから、力を緩めて」


 しかしアルカネットの腕の力は緩まない。


「息が苦しいの、アルカネットさん離して…」

「私から離れるというのですか?」


 突然アルカネットはビクッと身体を震わせ、険しい表情になってキュッリッキを見おろした。まるで信じられない言葉を聞いたかのように、怒りがじわりと滲み出している。


「許しませんよ、私から離れるなど、絶対に許しません!」

「い、痛い」


 身体を更にキツく抱きしめられ、キュッリッキは苦悶の表情を浮かべた。


(一体どうしちゃったんだろう、アルカネットさん!? なんだかすごく怖い。今日はもう、さっさとエルダー街へ帰っちゃおう…)


「アルカネットさん…アタシ、もう、エルダー街へ帰る、離してアルカネットさん!」

「帰る? あなたが帰るべき場所は、私の腕の中ですよ。それ以外の一体どこへ帰ろうというのですか、リューディア!!」


(さっきから誰のことを言ってるの? 写真の女の子……?)


 次の瞬間、キュッリッキは叩きつけられるようにベッドに押し倒され、アルカネットにのしかかられて動きを封じられてしまった。

 狂気のような光を宿すアルカネットの瞳が間近に迫り、ふいに足の先から恐怖が這い上ってきて、喉の奥で掠れるような悲鳴を上げた。


「やだ、怖いの……」


 キュッリッキは必死に身をもがいたが、アルカネットは全身の体重を乗せて押さえつけてくるので、抜け出すことができない。恐怖のために大きく見開いた目から、自然と涙が溢れ出す。


「やだ……やだ、やだああっ!」


 堰を切ったように必死に泣き叫ぶが、アルカネットは力を緩めようとはしない。むしろ力が増していく。


「絶対に逃しません。もう二度と、私の手から逃しはしない!」


 アルカネットは強引にキュッリッキの口をキスで塞ぐと、貪るようにして悲鳴も何もかも喰らい尽くした。


(助けてメルヴィン、怖いよ…助けてっ)


 キュッリッキは心の中で泣き叫んだ。

 アルカネットのキスは少しも優しさがなく、激情を押し付けてくるだけの荒々しいものだった。そのせいで、キュッリッキは口の端を噛まれて血を出し、口内に血の臭いが充満する。

 自由になる足を必死にばたつかせるが、身体は自由にならない。

 アルカネットは一旦口を離すと、何度も息を荒く吐き出し、左手でキュッリッキのワンピースの裾を掴んでまくりあげた。そして下着の中に手を入れて肌に触れた。

 その行為にビックリしたキュッリッキは、更に目を大きく見開き、半狂乱になって泣き喚いた。


「ヤメて気持ち悪いの! いやああっ!!」


 不愉快な感触と恐怖で、涙が後から後から溢れ出した。涙で滲む目に映るアルカネットの顔は、狂気に歪んだ知らない男の顔をしている。

 触れられたところが痛くて気持ち悪く、怖くて怖くてたまらない。


「よすんだアルカネット!!」


 その時ベルトルドの怒鳴る声が耳をついて、アルカネットが身体から離れた。


「放せベルトルド! リューディアが私から離れると言うんだ! 彼女にそんなことを言わせないようにしなくてはならないんだ!!」

「落ち着けアルカネット、彼女はリューディアじゃない! キュッリッキだ」

「何を言っている! リューディアが、私のリューディアが帰ってきてくれたんだ! もう二度と手放さない、けっしてもう、手放したりはしない!!」

「リューディアはとっくに死んでいるだろう」

「バカを言うな!! 彼女は死んでない! こうして目の前にいるじゃないか」

「アルカネット!」


(ベルトルド……さん? たすか…った)


 キュッリッキは恐る恐る身を起こし、怯えたように2人を見つめた。

 ベルトルドはアルカネットを押さえ付けるように床に座り、アルカネットはベルトルドの腕の中で吠えるように叫んでいた。その、狂気じみた形相が恐ろしいほどに。


(どうして? どうしてこんなことに…)


「リッキー、帰りなさい」

「……え」


 ベルトルドの声にビクッとなりながらも、キュッリッキは涙に濡れた顔を向ける。


「エルダー街の、メルヴィンのところへ帰りなさい」

「ベルトルドさん…」


 そのあまりにも悲痛に歪む顔で、ベルトルドは必死に微笑もうとしていた。キュッリッキを少しでも安心させようとしている、それが痛いほど伝わる表情かおだ。それとは対照的に、アルカネットの表情かおは怖ろしい狂人のようである。

 怯えて動けないキュッリッキに、ベルトルドは声を荒らげた。


「帰りなさい!!」


 一喝されるように言われ、キュッリッキは再びビクッと身体を震わせると、力の入らない足で必死に立ち上がり、よろめきつつ部屋を飛び出した。


「待って、リューディア!」

「よせ、アルカネット!」


 手を伸ばし反射的に飛びつこうとするアルカネットを、ベルトルドは必死に押さえつけた。


「行ってしまう、彼女が……リューディアが行ってしまう! 放せベルトルド、リューディアが――」

「彼女はリューディアじゃないんだ。アルカネット、違うんだ…」

「うぅ……うわあああああああっ!!」


 両手で顔を押さえて泣き崩れるアルカネットを、ベルトルドはしっかりと抱きしめた。


「アルカネット……」


 普段の姿からは想像もつかない程、大声で泣くアルカネットの名を切なく呟く。


(アルカネットは、もう限界だ)


 キュッリッキの消えていった扉の方を見つめ、ベルトルドは泣きそうな表情になった。


(何がトリガーになった? 一体何が…)


 ヒーヒー声を振り絞るかのように泣くアルカネットを見つめ、ベルトルドは観念したように俯いた。そして床に落ちている写真立てに気づいて顔を歪ませた。


(もう、限界だ)



* * *



 ドコをどう走ったのか覚えていなかった。ただ、無我夢中でアジトへ向かって走る。

 一度も足を止めなかった。

 もし止めたら、アルカネットに捕まりそうな恐怖にかられ、足を止めることができなかったのだ。


「あうっ」


 石畳に足を取られて、前につんのめって倒れた。膝を強く打ち付けたが、痛みは感じない。それよりももっと大きな恐怖感に、身体も心も支配されていたからだ。


「あんたなんで、こんなところで転んでるの!?」


 突如マーゴットの素っ頓狂な声が頭上からして、キュッリッキはのろのろと顔を上げた。


「ちょっと、泣いてるじゃない、そんなに痛いの?」


 びっくりしたマーゴットは、しゃがんでキュッリッキを起こしてやる。


「転んでパンツ見えてるわよ。ほら、立てる?」


 小さく頷き、マーゴットにつかまりながらキュッリッキは立とうとした。しかし、まるで足に力が入らず、ヘナヘナと石畳に座り込んでしまった。


「転んだ拍子によほど強く身体を打ったのかしら? フェンリル、アジトにカーティスとメルヴィンいるから呼んできて」


 オロオロとしているフェンリルに、マーゴットはビシッと言うと、フェンリルは弾かれたようにアジトへ走っていった。その後ろにフローズヴィトニルが続く。


「まったくドジなんだから。ほら、膝擦りむいてない?」


 キュッリッキの身の上に起きたことなど知らないマーゴットは、テキパキとキュッリッキの怪我の具合を診る。

 そして待つこと数分、血相を変えたカーティスとメルヴィンが駆けつけてきた。


「リッキー、どうしたんですか!?」

「メルヴィン……」


 キュッリッキはくしゃりと顔を歪ませると、そのまま意識を失った。


「リッキー!? どうしたんですかリッキー!!」

「キューリさん!」




 急いでアジトに運び込まれたキュッリッキは、自室でヴィヒトリの診察を受けた。


「ヴィヒトリ先生……」


 キュッリッキの部屋から出てきたヴィヒトリは、メガネを外すと、小さくため息をついた。

 いきなり勤務中にヴァルトから「キンキューだすぐこい!」と連絡が入り、大慌てでエルダー街へ駆けつけてきたのだ。


「転んだ時の怪我は大したことないよ。膝を強く打ってるから、数日は痛むと思うけど、湿布貼っとけばすぐ治る」

「はい」


 メルヴィンはひとまずホッと息をついた。


「ただ、ちょっと精神的に混乱している感じだから、無理に問い詰めるようなことをしちゃ、ダメだよ」

「はあ…」

「何か、よほどショックなことがあったみたいだ。自分から話せるようになるまで、絶対無理強いしないように、いいね?」

「はい」

「よお、フショーの弟よ! きゅーりダイジョーブなのか?」


 小型バーベルを片手で持ち、上げ下げしながらヴァルトがやってきた。


「精神的にショック受けてるから、あんまからかっちゃダメだよ、にーちゃん」

「俺様は空気が読めるんだぜ!」

「だったら、談話室行ったほうがいいよ」

「おう」


 ヴァルトは素直に返事をすると、さっさと談話室の方へ行ってしまった。


「そばについててあげて」

「はい、わかりました」


 メルヴィンは頷くと、キュッリッキの部屋へ入っていった。




 メルヴィンはベッドの横に椅子を持ってきて座った。

 薬を投与されたキュッリッキは、スヤスヤとよく眠っている。


「一体、なにがあったんですか……」


 シーツの中から細い小さな手を取り出し、きゅっと握った。

 自らの過去を打ち明けてくれた時とは違う、怯えてとても辛そうな表情をしていた。

 毎週水曜はテレビ鑑賞のためにベルトルド邸へ行く。この頃は泊りがけで行くので、いつも翌日の昼近くに帰ってくる。

 帰ってくると、昼食をみんなで食べながら、テレビ番組の感想やらなにやらで、楽しく盛り上がっていた。それなのに、今日はあんなに辛そうな顔で石畳に座り込んでいた。

 マーゴットの話では転んだらしい。顔は涙で濡れていたし、意識を失うほど何かに気を張っていたのだろうか。

 理由を知りたいと思うが、ヴィヒトリが言うように、無理に問い詰めないほうがいいだろう。

 メルヴィンはキュッリッキの柔らかな頬を、優しくそっと撫でてやった。




 翌日、ハワドウレ皇国に激震が走った。

 副宰相ベルトルドの、退任の報である。

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