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158話:ベルトルドの真の願い

 フェンリルとフローズヴィトニルを床に置くと、キュッリッキはベルトルドの傍らまでゆっくりと歩いた。

 メルヴィンやライオン傭兵団のみなも、慌てて駆けつける。


「ベルトルドさん…」


 ピクリとも動かず、白い軍服の上半身は己の血で赤く染まり、片翼の黒い翼は無残にもあちこち羽根がむしり取られた状態になっていた。

 あまりにも痛々しい姿に、キュッリッキは泣きそうにって顔を歪めた。

 キュッリッキは傍らに座り込むと、そっと身を乗り出す。

 ほどなくして瞼が小さく震えると、ベルトルドが目を覚ました。


「ベルトルドさん」

「……リッキー、か?」

「うん」


 顔は動かず、目も薄く開いたまま、高い天井を茫洋と見ているだけのような、力のない表情だった。


「どこに、いるのかな?」

「え?」

「声は聞こえるのだが、何も見えないんだ…」


 フッと情けなさを滲ませ、ベルトルドは小さく笑んだ。


「あ、アタシそばにいるよ、隣にいるの」


 力なく置かれたベルトルドの手を、キュッリッキは握ろうと手を伸ばしたが、咄嗟にその動きを止めてしまう。

 この大きな手で、何をされたのか一瞬にして頭を過ぎり、怖くてそれ以上動かせなかった。


「すまない、リッキー…」


 躊躇うキュッリッキの気配を感じ、弱々しい声でベルトルドが言う。


「傷つけたくはなかった、本当に。……だが、俺はどうしても、約束を破ることは、できなかった…」


 31年前、リューディアの墓の前で、リューディアとアルカネットにした約束。


 復讐、神を殺すという約束。

 生半可な気持ちで、一時の激情にまかせてした約束ではない。自分の一生と命をかけてした約束だ。


「神に復讐することは、アルカネットにとって生き続ける意味でもあった。リューディアの死は、それ程までに大きく、重かったんだ…。アルカネットを弟のように思っていた。だから、何としてでも叶えてやりたかった」


 神へ復讐を遂げるまで、死ぬに死ねなかったアルカネット。リューディアの死を自分の責任のように思い、多重人格に己を支配されながら、それでもなお、復讐心だけがアルカネットの存在をつなぎ止めていた。

 己を保つために、やしきの使用人の女たちをはけ口にしていた。性欲を満たすために犯し、殺意を鎮めるために殺していたこともある。許しがたいことだと判っていても、ベルトルドは黙認してきた。しかし、最愛の少女を犯す役目だけは、自分がせねばとアルカネットには触らせなかった。アルカネットの残虐性を見てきたから、とてもじゃないが任せられない。傷つける行いに方法の善悪などありはしないが、それでも、アルカネットの心に僅かに残されていた、キュッリッキを大切に思う人格のためにも、嫌われ憎まれるのは自分の役目だと思った。


「リッキーの尊厳を傷つけることと、アルカネットの願いを叶えること、それを天秤にかけていいことではないと、判っていた。だが、俺はアルカネットの願いをとった。その中には、俺の願いも含まれていたからだ」

「ベルトルドさんの、願い?」


 キュッリッキは困惑して、小さく首を傾げる。


「俺は、リューディアが好きだった。アルカネットに遠慮して、自分の心を押し込めはしたが、それでも好きだという気持ちは抑えきれない。だから俺は、俺なりの方法で、リューディアの想いに報いようと考えたんだ」


 アルカネットのために身を引いて、リューディアの想いも拒否し、彼女を深く傷つけた。それなのに、死したリューディアの中には、ベルトルドへの恋心が溢れんばかりに遺っていた。拒否されても、諦めきれなかったリューディアの切ない恋心。


 そのことは、一生の後悔となったのだ。


「リューディアの恋心を拒否した、そのことはもう取り返しがつかない。でも、もうひとつのリューディアの夢は、絶対に叶えたいと思った。それがリッキーを傷つけることだと判っていても、叶えなければと、俺自身に誓ったことだった」

「リューディアの……夢」

「そうだ。技術の力で空を飛ぶこと、それが、彼女の夢だった」


 ベルトルドの記憶で見たリューディアは、いつも大きなスケッチブックを抱えていて、思いついた発明のアイデアを書き込んでいた。機械工学の〈才能〉スキルを持っていた彼女は、自分で発明した空飛ぶ乗り物で、空を自由に翔けたいと、そう願っていた。


「一万年前の世界では、人は技術の力で自由に空や宇宙を飛び、駆け巡っていた。くだらない発端で戦争が絶えず、やがて愚かな王の誕生とともに、世界は半壊し、神々は人間たちを造り変え、飛行技術や閃きを消し去ってしまった。痕跡を残さず消し去り、人が空に憧れることはあっても、〈才能〉スキルナシには飛べないと、諦めがよくなってしまっていた。全てはユリディスの身に起こった不幸を、今後生まれてくる巫女たちに起こらないようにするために。――一人の男の愚かな欲のために、後世は自由に空を飛ぶことすら、できなくなってしまったんだ」


 ユリディスの記憶で見せられた、クレメッティ王の顔を思い出し、キュッリッキは渋面を作った。卑猥なショーの見世物で、ユリディスを辱めた愚昧なる王。全てはクレメッティ王が元凶なのだ。


「だが人間は進化していく。リューディアのように、突然閃く者も出てくるだろう。アイデアが浮かんだだけで神罰が飛んでくるようでは、たまったものではない。それに、地下深くには、神でも気付かなかったフリングホルニが遺ったりしていた。そうしたものを掘り出し、俺のように使う者も現れる」


 ベルトルドは眉を寄せ、天井を睨むように目を眇めた。


「だから、返してもらうのさ、人間たちから奪ったものを。リューディアから奪ったもの、全ての人間たちから摘み取った、飛行技術を」




 人間は空を飛べない。

 身体に翼はなく、空を飛ぶようには出来ていないからだ。

 例外として、背に翼のあるアイオン族、そして超能力サイや魔法〈才能〉スキルを持つ者たちは、空を飛べる。

 だから、人間は空を飛ぶことに憧れる。


 ――それだけだった。


 憧れて、それで諦める。

 人間たちがそんな風に、空への憧れを簡単に諦めるようになったのは千年前からだ。しかし時を経て、諦めない人間が誕生する。

 その人間の名を、リューディアという。

 機械工学の〈才能〉スキルを授かり生まれてきた少女は、青い青い空に憧れるヴィプネン族に生を受けた。

 背に翼もなく、超能力サイも魔法もない。だから、自らの力で空を飛びたいと思った。自らの発明で、技術の力で、空を飛びたいと願った。

 リューディアは沢山のアイデアを思いつき、煮詰めていった。

 やがてリューディアは、自分だけが空を飛ぶのではなく、人々が自由に空を行き来できて、エグザイル・システムを使わなくても世界を移動ができるように、そう願いが増えた。

 13歳のあの夏の日、ようやく基礎理論が完成し、そして命を落とした。

 強大な落雷によって。

 神罰の光によって。

 有無を言わさず、問答無用だった。

 リューディアの死は、人類から飛行技術が再び、永遠に奪われた瞬間でもあったのだ。


「リッキーは言ったな、神は人間を慈しみ、愛していると」

「う、うん」

「ふっ…、確かにそうかもしれん。……だが、信用はしていない」


 皮肉な笑みを、ベルトルドは口の端に浮かべる。


「愛してはいるが、信用はしていない。それは人間たちが自ら、神から信用を奪い取ってしまったからだ。ユリディスの一件がそうだ。だから1万年経った今もまだ、信用は回復することはない。――更には俺が、再び失わせてしまったしな」


 ベルトルドは自らを嘲るようにククッと笑い、目を伏せた。

 1万年前のクレメッティ王と同じ愚行を犯した。キュッリッキを愛していると口にしながら、力ずくで純潔を奪った。嫌がる彼女を犯した結果が、こうして動けない身体で横たわっていても、触れることさえ出来なくしてしまったのだ。


(そばにいることさえ、怖いだろうに…)


 キュッリッキの信用を失うということは、同時に神からの信頼も失ったということ。しかし、ベルトルドは叶えなければならなかった。

 愛する少女を傷つけてまで、成そうとしたのだから。


「リッキーにお願いしても、いいかな?」

「……ア、アタシにできることなら、なんでも」

「うん」


 ベルトルドは顔を動かすことなく、いつもキュッリッキにだけ見せていた、優しい笑みを浮かべた。


「神なる存在に、伝えて欲しい…。人間たちに飛行技術を返してくれ、と」


 本当なら、自分の口から訴えたかった。神の胸ぐらをつかんで脅してでも、取り返したかった願い。

 リューディアから奪った夢を返して欲しい、リューディアの純粋な願いを叶えよと。

 争いごとのために飛びたいわけじゃない、神域を脅かしたいわけでもない。ただ、自分の力で自由に空を飛びたい、自分の技術力によってみんな自由に。それだけだったのだ。


「ベルトルドさん……」

「俺にはもう、手を動かすことも、超能力サイを使うことも、見ることも出来ない。身体の感覚も、もうないんだ」


 キュッリッキはグッと喉を詰まらせ、口を引き結んだ。

 一目見た時から判っていた。

 ベルトルドの命が、消えかかっていると。

 ドラゴンの魂と融合した時点で、人間であるベルトルドの魂は消滅するはずだった。それでもかろうじて生きているのは、アウリスの血を通じて、ロキ神の遺伝子が覚醒しているからだ。

 それでも、彼に残された時間は、あと僅かだった。


「リッキーを傷つけた俺が、頼めることではないな…。すまない、本当に」


 ベルトルドの声は、どこまでも穏やかだった。何故かそれが、キュッリッキには辛い。

 彼と出会い、まだ1年にも満たない。それなのに、過ごした時間は濃密なものだった。

 沢山のものを与えてもらった。楽しい思い出、優しい思い出、嬉しい思い出。そして、辛い思い出。

 最後に与えられるのは、悲しい思い出。

 色々なものを与えられるばかりで、自分はベルトルドに何を与えられたのだろうか。


(これから……なのに……)


 膝に置いた手でドレスをギュッと掴み、キュッリッキは肩を震わせる。


(ちゃんと、言わなきゃ…)


 全ては伝えられないけど、ちゃんと言わなければと、キュッリッキは顔を上げた。


「痛かったんだよ…、心も、身体も、すっごく、痛かったんだよ」


 ポロポロと涙が零れ落ちる。


「あんなことされるって判ってたら、あの時ベルトルドさんのミミズ、引っこ抜いちゃえばよかった」


 その一言に、ベルトルドの顔が微妙に引きつった。せっかく努力して忘れていたのに、まさかのこのタイミングで、あの忌まわしい出来事を思い出す羽目になり、更にベルトルドの顔が引きつる。出来れば死ぬまで忘れていたかったかも、と心でぼやく。


「アタシに酷いことしたのは、まだ許してあげない。でも、ベルトルドさんのこと、アタシ好きだから。酷いことした以上に、アタシにいっぱい優しくしてくれて、愛してくれて、だから、だから、好きだからっ」

「そうか…」


 ベルトルドは苦笑を滲ませる。

 まだ許さないと言いながらも、好きだと言ってくれる。

 キュッリッキの心の葛藤が手に取るように判って、ベルトルドの心には斬鬼の念しか湧いてこない。本当に深く傷つけてしまったのだと再認識させられた。謝っても謝りきれないほどに。


「なあリッキー、俺とメルヴィン、どっちが一番好きかな?」

「メルヴィン」


 間髪入れず即答され、ベルトルドの顔に激しい落胆が広がる。


 後ろで黙って成り行きを見守っていたライオン傭兵団の皆も、キュッリッキの迷いのなさに苦笑いが浮かんだ。――そこは容赦なしかい、と。


「オレの勝ちです」


 キュッリッキの後ろに控えていたメルヴィンが、キッパリとした声でトドメを刺す。その発言に、ベルトルドはむくれた顔をしたが、やがて真顔になった。


「貴様のような青二才に託していくなど心外の極みだが、ほかに頼めそうな奴が見当たらないから、仕方なく任せてやる。――いいな、必ず全力で守り抜け」

「もちろんです。命にかえても絶対に」

「馬鹿者!」


 ベルトルドは激しく一喝すると、眉を寄せて不快感をあらわにする。


「だから貴様は青二才なんだ! 貴様が死んだらそのあとはどうする? リッキーを独り遺して誰が守る。そう簡単に役割を替われる人間がどこにいるんだ。自分の命も守ってリッキーも守る、それが出来なければ金輪際リッキーに関わるな!」

「あ……、はい」


 恥じ入ったようにメルヴィンは俯いた。それを見て、キュッリッキは身を乗り出す。


「メルヴィンいじめちゃダメなの!」

「違うんですよ、リッキー」


 メルヴィンは自嘲して、キュッリッキの傍らに膝をつく。

 ベルトルドはメルヴィンを認めた上で、共に生きていく覚悟を言っているのだ。不幸しか知らないキュッリッキを幸せと愛で満たし、必ず隣に居続ける、その覚悟を。

 そう、自分が先に死んではならないのだ。絶対に――。


「全く、これでは心配で死んでも死にきれんな」


 ベルトルドは小さくため息をつく。


「だが、そろそろ意識がヤバい」


 キュッリッキはハッとなって、ベルトルドの肩を両手で掴む。


「必ずベルトルドさんのお願いを、神様たちに伝えるから。アタシ、ちゃんと伝えて、絶対叶えてもらうからね!」

「ああ、お願いだ」


 キュッリッキの手が肩に触れていることすら、もうベルトルドは感じ取れていなかった。


「ベルトルドさんのこと大好きだからね!」

「嬉しいな、リッキー…」


 まるで遠くから響くような感じで、キュッリッキの声が聞こえてくる。そして、波が引いていくように、声が遠ざかっていく。


「ベルトルドさん…死んじゃ…ヤなの…」

「……愛しているよ、リッキー…、永遠に愛して、いる…」


 その後、声にならない言葉を小さく何事かつぶやき、ベルトルドの口は動かなくなった。


「ベルトルド…さん?」


 ぽつりと呟くように言って、キュッリッキは小さくベルトルドの肩を揺すった。何度も、何度も、揺すり続けた。


「ねえ、ベルトルドさん」

「リッキー…」


 見かねたメルヴィンが、そっとキュッリッキの手を掴み、揺することを止めさせる。


「ベルトルドさん寝ちゃったの。寝ちゃうと中々起きないんだよ、起こしてあげるの」

「いえ…このまま、寝かせてあげましょう、ね?」

「だって」

「リッキー」


 メルヴィンはぎゅっと強くキュッリッキを抱きしめた。何故だか、無性に泣きたい気分だった。

 最大のライバルが消えて、嬉し泣きをしたいのか。キュッリッキを脅かす存在が消えて、安堵して泣きたいのか。

 どれも、違う。

 ただ素直に、悲しい、と。

 心がすでに泣いていた。

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